第78話 呼ばない場所をつくる
最初に、
エレノアは地図を閉じた。
異変の印も、
危険度の線も、
一度、全部。
「……ここじゃない」
探す場所を、
間違えている気がした。
境界の向こうで、
ネファル=ディアが、静かに言う。
(探すのを、やめるのか)
「……はい」
(珍しいな)
「探すより」
「空けたいんです」
⸻
選んだのは、
誰も注目しない場所だった。
街道から外れ、
採集にも向かない丘。
魔力は薄い。
地脈も、太くない。
だからこそ――
呼ばれない。
「……ここなら」
エレノアは、
荷を下ろし、地面に触れた。
刻印は刻まない。
陣も描かない。
代わりに、
何もしない。
それが、
最初の作業だった。
⸻
「……不安定、ではありますね」
同行していたミラが言う。
「畑にもならないし」
「素材も取れない」
「はい」
エレノアは、頷いた。
「役に立たない場所です」
その言葉に、
ミラは少し笑った。
「……エレノアらしい」
⸻
呼ばない、というのは、
放置ではない。
エレノアは、
周囲に目印だけを置いた。
「立ち入り禁止」でもない。
「聖域」でもない。
ただ――
何も期待しない場所。
「……ここでは」
「何も、起こらなくていいです」
誰に向けた言葉でもない。
でも、
空気が、わずかに変わった。
⸻
境界が、
そっと緩む。
(……奇妙だな)
ネファル=ディアが言う。
(呼ばれない場所を)
(意図的に、残すとは)
「……怖いですか?」
(……少しな)
正直な答えだった。
(世界は)
(常に、使われる前提で組まれている)
(そこに)
(“使わない”を置くのは)
(歪みを生む)
⸻
「……歪みは」
「すでに、あります」
エレノアは、静かに返した。
「だから」
「余白を、正式に置くんです」
「勝手に生まれる余白じゃなく」
「選んだ余白を」
ネファル=ディアは、
しばらく黙った。
(……人間は)
(余白を、恐れる)
「はい」
(お前は)
(……そこに、名前を与えぬのだな)
「……はい」
⸻
日が暮れる頃。
丘には、
何も起きなかった。
魔力の高まりも、
反応もない。
ただ、
風が吹き、
草が揺れる。
ミラが、ぽつりと言う。
「……落ち着くね」
「はい」
エレノアは、
それ以上、何も付け加えなかった。
⸻
その夜。
境界の深いところで、
名を持たぬ存在たちが、
わずかに集まる。
呼ばれない。
縛られない。
それでも、
拒絶されていない。
(……ここは)
誰かが、思う。
(……返事を、しなくていい)
⸻
遠くで。
ヴァルク=レイオスは、
報告書を読んでいた。
「……呼ばない場所、だと?」
紙を置き、
低く呟く。
「……世界を、甘やかす」
その声に、
怒りはない。
だが――
動く理由は、十分だった。
⸻
同じ夜。
しおりは、
久しぶりに、夢を見なかった。
何も起きない夜。
それなのに、
朝、少しだけ楽だった。
「……あれ」
独り言が、漏れる。
「……休めた、のかな」
理由は分からない。
でも、
それでいいと思えた。
⸻
呼ばない場所は、
まだ、名前を持たない。
評価も、価値も、ない。
それでも、
世界は確かに、
一つ、深呼吸をした。
そして、
それを“許さない者”が、
動き始めている。
物語は、
次の衝突へ向かう。




