幕間 朝霧しおりの夜
夜だった。
部屋の電気は消してある。
カーテンの隙間から、街灯の光だけが差し込んでいた。
しおりは、布団の中で目を開けたまま、
天井を見ている。
眠くないわけじゃない。
でも、
眠る前に考えてしまう夜だった。
⸻
「……なんでだろ」
ぽつりと、声が落ちる。
今日は、
特別なことはなかった。
仕事も、
いつも通り。
大きな達成も、
失敗もない。
それなのに、
胸の奥が、妙に落ち着いている。
「……安心、してる」
その事実に、
しおり自身が少し驚いた。
⸻
しおりは、思い返す。
病気のあと。
失恋のあと。
「安心」って言葉は、
ずっと遠いものだった。
何も起きない日。
それは安心じゃなくて、
“まだ壊れていないだけ”の日だった。
いつ壊れるか分からない。
だから、
期待しない。
動かない。
選ばない。
それが、
自分を守る方法だった。
⸻
でも今は、違う。
何かを選んだあとなのに、
心が落ち着いている。
「……おかしいな」
普通は、
不安になるはずなのに。
しおりは、
ゆっくり息を吐く。
(……ああ)
理由が、
少しずつ形になる。
⸻
「……切らないから、か」
言葉にした瞬間、
胸の奥が、静かにほどけた。
切らない。
見捨てない。
早く終わらせない。
それは、
効率が悪い。
遠回り。
でも――
置いていかれない。
しおりは、
それが、たまらなく安心だった。
⸻
病気の時。
「前と同じ生活は無理です」
その言葉で、
一気に世界が切られた気がした。
失恋の時も、そうだ。
理由も説明もないまま、
関係が切れた。
どちらも、
正しかったのかもしれない。
でも、
納得は、していない。
⸻
「……だからだ」
しおりは、静かに言う。
切らない、という選択は、
自分が欲しかった態度だった。
完全に治らなくてもいい。
前に戻れなくてもいい。
それでも、
“ここにいていい”と思えること。
「……それを、選んでる人がいる」
名前も、
顔も、
知らないはずなのに。
なぜか、
それが分かる。
⸻
「……安心するんだ」
理由が、
ようやく言葉になった。
強いからじゃない。
正しいからでもない。
切らない在り方が、
自分を切らなかったから。
それだけ。
⸻
しおりは、布団の中で、
小さく丸くなる。
涙は出ない。
でも、
胸の奥に、温度が残る。
「……この感じ」
久しぶりだ。
守られている、とは違う。
依存でもない。
ただ――
急がなくていい、と言われた気がする。
⸻
「……新しい出会いって」
急に、
強い人じゃなくていい。
全部を引っ張ってくれる人じゃなくていい。
切らない人。
待てる人。
もしくは――
一緒に迷える人。
それで、十分だ。
⸻
しおりは、目を閉じる。
今日は、
怖くない。
選んだあとでも、
心が壊れていない。
その事実が、
何よりの証拠だった。
「……大丈夫」
今度は、
確信を持って言えた。
⸻
遠い世界で。
同じ夜に、
エレノアは、静かに灯りを落とす。
切れない選択。
代価を知った選択。
それでも、
立ち止まらなかった。
その在り方が、
理由もなく、しおりを救っている。
⸻
二人は、まだ会わない。
でも、
同じ答えの周りを、
違う人生で歩いている。
それで、いい。




