第73話 切れない者の代価
夜の境界は、静かだった。
風も、音もない。
ただ、在る。
エレノアは工房の灯りを落とし、
椅子に腰掛けたまま、目を閉じていた。
「……ネファル」
呼びかけは、名だけ。
それで十分だと、
もう分かっている。
境界が、わずかに歪む。
(ここにいる)
声は近い。
いつもより、はっきり。
⸻
(先ほどの召喚士)
「……ヴァルク、ですね」
(ああ)
(あれは)
(“正しい”側の者だ)
エレノアは、否定しなかった。
「はい」
(だが)
ネファル=ディアの気配が、
わずかに重くなる。
(お前は)
(あの道を、選ばなかった)
「……選びませんでした」
(なぜだ)
問いは、鋭い。
⸻
エレノアは、少し考えてから答える。
「切ることが」
「楽だと、知っているからです」
(……ほう)
「結果も出る」
「評価もされる」
「でも」
「それで残るのは、“力”だけです」
境界が、静かに揺れた。
(力だけ、か)
「……はい」
⸻
ネファル=ディアは、
少し間を置いて言う。
(ならば、聞こう)
(お前は)
(切れないことで)
(何を失う)
エレノアは、
すぐに答えられなかった。
胸の奥で、
答えが、形になっていく。
「……時間、です」
「救えるはずだった誰かを」
「待つ間に、失うかもしれない」
(他には)
「……信用、です」
「結果が遅れれば」
「無能と呼ばれる」
(まだある)
エレノアは、
深く息を吸った。
「……命、かもしれません」
その言葉を口にした瞬間、
空気が、張りつめる。
⸻
(それでも)
ネファル=ディアの声は、低い。
(切らない、と言うのか)
エレノアは、目を閉じたまま頷いた。
「……はい」
(ならば)
(お前は、選び続けねばならない)
(切らぬという選択を)
(毎回、更新し続ける)
(楽な道は)
(もう、二度と来ない)
⸻
エレノアは、
ゆっくりと目を開けた。
「……分かっています」
(分かっていない者は)
(ここまで来ない)
その言葉は、
認める声だった。
だが――
次の言葉は、さらに重い。
(だが)
(一つだけ、忘れるな)
(切らぬ者は)
(必ず、切られる)
(世界に)
(他者に)
(そして、時には——)
一瞬の沈黙。
(自分に)
⸻
エレノアは、
喉の奥が、少しだけ詰まるのを感じた。
「……はい」
(それでも、進むか)
「……進みます」
声は、小さい。
でも、逃げていない。
ネファル=ディアは、
それ以上、何も言わなかった。
ただ、
気配が、少しだけ近づく。
(ならば)
(私は)
(お前が切れなくなる、その時まで)
(隣に在ろう)
それは、誓いではない。
覚悟を共有する言葉だった。
⸻
その夜。
エレノアは、すぐには眠れなかった。
ネファル=ディアの言葉が、
胸の奥で、何度も反響する。
(切れない者は、切られる)
それでも。
(……それでも)
目を閉じる。
⸻
同じ頃。
現実の世界で、
しおりは、ベッドに横になっていた。
理由は分からない。
ただ、
胸の奥が、少しだけ重い。
「……今日は」
呟く。
「……誰かの覚悟に」
「触れた気がする」
それが誰なのか、
分かるはずもない。
でも、
なぜか、涙は出なかった。
代わりに、
胸の奥に、静かな安心が残る。
「……大丈夫」
誰に向けた言葉かも、分からない。
それでも、
その言葉を信じられた夜だった。




