第70話 それでも、動いたもの
朝の港は、前日とほとんど変わらなかった。
潮は穏やかで、
空も澄んでいる。
それでも、
人の動きが、ほんの少し違う。
「……昨日より、出てる船が多い」
調査屋の一人が、双眼鏡を下ろして言った。
「全部じゃないけど」
「短距離の船が、動いてる」
エレノアは、港を見渡す。
確かに、
遠洋には出ない。
でも、
岸沿いの小舟が、幾つか動いている。
「……補助装置の範囲内、ですね」
「完全じゃない」
「でも……ゼロじゃない」
その“ゼロじゃない”という言葉が、
静かに胸に残った。
⸻
装置の前に立ち、
エレノアは刻印を確認する。
魔力の流れは、安定している。
でも、
以前より“人の手”が必要だった。
「……維持、します」
「毎日?」
「はい」
「最低でも、しばらくは」
リネアが腕を組む。
「……面倒ね」
「でも」
エレノアは、少しだけ視線を上げる。
「放っておくよりは、ずっといいです」
リネアは、小さく笑った。
「言うようになったじゃない」
⸻
その頃。
港の端で、
一人の男が、補助装置を遠目に見ていた。
年齢は若くない。
服装は、冒険者というより、研究者寄り。
「……人の手で、埋める、か」
誰にも聞こえない声で、呟く。
彼の視線は、
刻印ではなく、
人の動きを追っていた。
「……歪むな」
それが、評価だった。
⸻
昼過ぎ。
ミラが、土の入った小袋を持って戻ってきた。
「……畑、少し変わった」
「良く?」
「ううん」
「“待つと応える”感じになった」
エレノアは、頷く。
「即効性は、ない」
「でも」
「無視されてる感じは、消えた」
その表現に、
エレノアは納得した。
(……余白が、繋がり始めてる)
完全な支えではない。
でも、
孤立でもない。
⸻
その夜。
工房で、
エレノアは新しい記録をつけていた。
補助は成立
即応性なし
継続前提
人の介在が鍵
書き終えて、
ペンを止める。
(……召喚じゃ、ない)
これは、
呼ぶことでも、切ることでもない。
“一緒に在る”ための技術だ。
境界の向こうで、
ネファル=ディアが、静かに言う。
(召喚士のやり方ではないな)
「……そうですね」
(だが)
(お前らしい)
その言葉に、
エレノアは少しだけ笑った。
⸻
同じ夜。
しおりは、帰り道で立ち止まっていた。
街灯の下。
足元に落ちた影を見つめる。
「……今日も、何も起きなかった」
それは、
悪い意味じゃない。
でも、
少しだけ物足りない。
(……待つ、って)
(こういう感じなのかな)
動かない。
でも、
止まってもいない。
その感覚が、
胸の奥に残る。
⸻
遠くで。
港を見ていた男は、
仲間にこう告げた。
「世界は、壊れていない」
「だが……均一じゃなくなった」
「それが、問題ですか?」
「問題になる」
「必ず」
彼は、静かに言う。
「人が、世界に介入しすぎると」
「選ばれる側が、黙っていなくなる」
その言葉は、
まだ噂にもならない。
でも――
確実に、次の波の種だった。
⸻
世界は、少しだけ動いた。
完璧ではない。
解決でもない。
それでも、
“応えが返ってくる場所”が、増えた。
エレノアは、まだ知らない。
この選択が、
味方だけでなく、観測者を呼び寄せたことを。
物語は、
静かに、次の段階へ進んでいる。




