第66話 切られた場所の余白
最初に気づいたのは、
音がなかったことだった。
港町の朝は、いつも騒がしい。
荷の積み下ろし、
船員の怒鳴り声、
市場の呼び込み。
それらが、
一つ抜け落ちたように静かだった。
「……静かすぎない?」
誰かが言った。
でも、理由は分からない。
風はある。
人もいる。
仕事も始まっている。
ただ――
何かが、返ってこない。
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海は、穏やかだった。
波は静かで、
空も澄んでいる。
それなのに、
船が、出ない。
「……潮、読めないんだ」
年配の船乗りが、
低い声で言った。
「潮は出てる」
「でも……“来ない”」
問い返されても、
それ以上の説明はなかった。
説明できないからだ。
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同じ頃。
山間の集落では、
水車が止まっていた。
壊れてはいない。
詰まってもいない。
ただ、
回らない。
「昨日までは、回ってたんだ」
村人は首を傾げる。
水は流れている。
水量も問題ない。
それなのに、
力が、伝わらない。
「……まるで」
「“応えてくれない”みたいだ」
その言葉に、
誰も反論できなかった。
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さらに遠く。
古い街道沿いの宿で、
旅人が言った。
「道が……遠い」
距離は変わっていない。
地図も同じ。
でも、
歩いても、歩いても、
目的地に着かない感覚がある。
疲れやすい。
集中できない。
「……何か、抜けてるんだ」
誰かが、そう言った。
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それらは、
災害ではなかった。
崩壊でも、暴走でもない。
機能していた“何か”が、
静かに消えている。
それだけ。
だからこそ、
対処の仕方が分からなかった。
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遺構の奥。
かつて、
簡略化された召喚陣が使われていた場所。
今は、
何もない。
刻印は消え、
痕跡も薄い。
そこに立つ者がいなくても、
空気だけが、違和感を覚えていた。
(……繋ぎが、ない)
境界の深いところで、
それを感じ取る存在がある。
名を持つ者。
切ることを知る者。
(切られた)
(だが、終わっていない)
終わらせるために切ったのではない。
守るために、離した。
その結果――
世界は、少し不器用になった。
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遠くで、
誰かが噂をする。
「最近、変じゃない?」
「何かが足りない感じがする」
「魔物が強くなったわけじゃない」
「でも……助けが遅い」
その言葉は、
やがて、旅人を伝って広がる。
まだ、名はつかない。
まだ、事件にもならない。
でも確かに――
“余白”が、生まれている。
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その夜。
エレノアは、工房で記録をつけていた。
港町。
山間部。
街道。
別々の報告が、
一つの感覚で繋がる。
「……機能不全、ですね」
境界の向こうで、
ネファル=ディアが応じる。
(切った場所の)
(反動だ)
「……私が?」
(お前が、選んだ)
責める声ではない。
ただ、事実。
エレノアは、ペンを止める。
「……でも」
「壊れてはいないですよね」
(壊れてはいない)
(ただ、支えが消えた)
「……だから」
「誰かが、無理をする」
その言葉を口にして、
胸が、少し苦しくなった。
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同じ夜。
しおりは、布団の中で目を開けていた。
理由は分からない。
ただ、
胸の奥が、落ち着かない。
「……今日は、少し遠い」
あの場所が、ではない。
感覚が、だ。
(……何か、足りない)
そう思って、
小さく息を吐く。
理由は、分からない。
でも、
逃げたいとは思わなかった。
⸻
世界は、
まだ壊れていない。
でも、
戻らない場所が増え始めている。
それを、
誰が埋めるのか。
それを、
誰が見届けるのか。
答えは、
まだ、どこにも書かれていない。




