第64話 選びきれなかった先で
朝の光は、強かった。
雲が切れ、
街道に影がはっきり落ちる。
エレノアは歩きながら、
昨日までの自分と、今の自分の違いを考えていた。
(……慎重じゃない)
そう自覚するほど、
不安はなかった。
むしろ――
迷いが、薄い。
それが良いことなのか、
悪いことなのか。
答えは、まだない。
⸻
目的地は、街外れの旧採掘跡。
昨日までなら、
「人が入らない場所」として
後回しにしていた地点だ。
理由は簡単。
•崩落の危険
•異変の兆候が複雑
•一人で向かうには不確実
それでも今日は、
足が自然と向いていた。
(……行ける気がする)
根拠はない。
でも、
“間に合うかもしれない”という感覚だけがある。
⸻
採掘跡の入口は、
想像以上に静かだった。
風もない。
音もない。
「……ここ、ですね」
足を踏み入れた瞬間、
空気が、わずかに沈む。
嫌な感じではない。
ただ、
重たい。
境界の向こうで、
ネファル=ディアの気配が動く。
(ここは)
(少し、深い)
「……切る必要は?」
(今は)
(まだ、ない)
その答えに、
エレノアは小さく頷いた。
(……じゃあ)
(進みます)
⸻
内部は、
古い召喚補助陣が幾つも残っていた。
正式なものではない。
簡略化された、現場用の刻印。
呼びやすく、
扱いやすい。
そして――
長く使われやすい形。
「……これ」
エレノアは、陣の一つにしゃがみ込む。
擦り切れている。
何度も、何度も、上書きされた痕跡。
(名、呼ばれてない)
はっきりと、そう分かる。
それでも、
奥から気配が返ってくる。
弱い。
でも、逃げていない。
「……来て、くれたんですね」
言った瞬間、
胸の奥が、きゅっと縮む。
(……また、だ)
理由は分からない。
ただ、
“間に合うなら、やりたい”と思ってしまう。
⸻
エレノアは、深く息を吸った。
「……今日は」
言葉を選ぶ前に、
次の言葉が出た。
「ここから、離れてください」
命令ではない。
でも、
提案よりは、強い。
境界の向こうで、
ネファル=ディアの気配が、わずかに張りつめる。
(……それは)
(選ばせない、という選択だ)
エレノアは、一瞬だけ目を伏せた。
「……分かっています」
(慎重では、ないな)
「はい」
即答だった。
それでも、
止まれなかった。
⸻
空気が、揺れる。
刻印が、音もなく薄れていく。
成功だ。
陣は崩れ、
気配は、外へと流れ出していく。
「……大丈夫」
エレノアは、そう呟いた。
胸の奥に、
確かな安堵がある。
(間に合った)
今日も。
⸻
その瞬間。
足元で、
小さな音がした。
「……?」
振り返るより早く、
壁の一部が、わずかに崩れる。
大崩落ではない。
怪我もない。
それでも――
一つ、取り返しのつかない変化が起きた。
内部の刻印が、
完全に消えた。
「……あ」
エレノアは、息を呑む。
(……観測、出来なくなった)
異変は止まった。
でも、
経過を追う手段が、失われた。
境界の向こうで、
ネファル=ディアが、低く言う。
(これが)
(代償だ)
エレノアは、何も言えなかった。
⸻
外に出ると、
空は変わらず明るい。
世界は、何も知らない顔をしている。
エレノアは、
胸の奥に残る違和感を、はっきりと感じていた。
(……慎重じゃなかった)
間に合った。
でも、
残せなかったものがある。
それが、
今日の選択の結果。
境界の向こうで、
ネファル=ディアが告げる。
(次は)
(もっと、重い)
エレノアは、ゆっくりと頷いた。
「……その時は」
言葉を選び、
続ける。
「ちゃんと、立ち止まります」
(それが出来れば)
(まだ、救える)
エレノアは、歩き出す。
迷わなかった朝。
選びきれなかった先。
それでも、
後戻りはしない。
前に進むしかないと、知ってしまったから。




