幕間 朝霧しおりの夜(慎重になった理由)
夜だった。
窓の外で、風が木を揺らしている。
カーテン越しに、街灯の光が揺れた。
しおりは、ソファに座ったまま動かなかった。
テレビは消えている。
スマートフォンも、机の上に伏せたまま。
静かだった。
この静けさを、
昔は「安心」だと思っていた。
でも最近は、
少しだけ、怖い。
⸻
「……私、慎重すぎるんだよな」
声に出すと、
その言葉は思ったよりも重かった。
慎重。
聞こえはいい。
でも本当は――
動かない理由を、上手に並べているだけだと、
しおりは自分で分かっていた。
⸻
病気のことを、思い出す。
倒れた日のこと。
病室の白い天井。
動かない身体。
「あの時は……」
判断する余地がなかった。
選ぶ前に、
全部、止められた。
「無理しないでください」
「今まで通りは、難しいです」
医師の言葉は、正しかった。
責められてもいなかった。
それでも、
しおりの中では、こう聞こえた。
前と同じことは、もう出来ない
それが、
思っていた以上に、深く刺さった。
⸻
失恋のことも、思い出す。
説明するほど、劇的じゃない。
喧嘩も、怒鳴り合いもなかった。
ただ――
帰ってこなくなった。
連絡が減って、
言葉が減って、
気づいた時には、いなかった。
「……ちゃんと、話せばよかったのかな」
今でも、たまに考える。
でも同時に、
分かってもいる。
話しても、変わらなかったかもしれない
その「かもしれない」が、
しおりを一番慎重にした。
⸻
病気で、
身体が信用できなくなった。
失恋で、
人の気持ちが信用できなくなった。
だから今は、
どちらも壊さない距離を選んでいる。
仕事も。
人間関係も。
新しい感情も。
「……安全、ではあるんだよね」
小さく笑う。
怪我もしない。
失望もしない。
でも――
心が動くことも、ない。
⸻
ベッドに横になり、
天井を見る。
(それでいい、って思ってた)
つい最近まで。
でも、
“間に合った”あの日から、
少しだけ、違ってしまった。
「……嬉しかったんだよな」
理由が分かっているから、
余計に逃げられない。
間に合った
遅くなかった
その感覚は、
しおりの中に、確かに残っている。
⸻
「……動かなかったから、じゃないんだ」
慎重だったから、
間に合ったわけじゃない。
あの日は、
ほんの少しだけ、動いた。
それだけ。
それなのに、
胸の奥が、あんなに温かかった。
「……怖いな」
また、
何かを選んでしまうのが。
また、
失うかもしれないのが。
でも。
「……全部を失ったわけじゃ、ないんだよね」
声にすると、
少しだけ現実味が出た。
⸻
しおりは、ゆっくりと目を閉じる。
意識が、
静かに沈んでいく。
(……あの場所)
畑の匂い。
夜の空気。
静かで、でも確かな世界。
「……あそこでは」
なぜか、
慎重になりすぎなくていい気がする。
理由は分からない。
でも、
壊れなかった。
それだけで、
少しだけ信じてみたくなる。
⸻
眠りに落ちる直前、
しおりはふと思った。
「……新しい出会いって」
別に、
恋じゃなくてもいい。
大きな変化じゃなくてもいい。
ただ――
また、間に合える場所。
それが、
一つでもあれば。
「……それなら」
少しだけ、
前を向いてもいい。
そう思えた夜だった。




