第63話 迷わず踏み出した朝
朝の空気は、少しだけ軽かった。
理由は分からない。
天気が良いわけでも、
状況が好転したわけでもない。
それでもエレノアは、
目を覚ました瞬間に思った。
(……今日は、動ける)
不思議な感覚だった。
疲れが取れたわけではない。
不安が消えたわけでもない。
ただ、
立ち上がるまでの時間が短かった。
⸻
工房で簡単な支度を済ませ、
エレノアは地図の前に立つ。
印は、まだ多い。
世界は、相変わらず落ち着いていない。
それでも、
指が自然と一つの場所に伸びた。
「……ここ」
川沿いの集落とは別の、
少し離れた地点。
昨日までなら、
「様子見」に回していた場所だ。
(……どうして、ここなんだろう)
理由は出てこない。
でも、
行かない選択肢も浮かばなかった。
「……行きましょう」
声に出してから、
自分で少し驚く。
即断だった。
⸻
街を出ると、
風が髪を揺らす。
歩きながら、
エレノアは自分の内側を確かめる。
(焦っていない)
(無理をしている感じもしない)
それなのに、
足は止まらない。
「……変なの」
以前なら、
一歩踏み出す前に、
もっと考えていた。
間に合わなかった場所。
選べなかった判断。
それらが、
いつも足を重くしていたのに。
今日は、違う。
(……理由が、ない)
その事実が、
なぜか少し心地よかった。
⸻
現地に近づくにつれ、
空気が変わる。
音が、少ない。
鳥の声が遠い。
「……ここ、ですね」
小さな遺構。
古い召喚研究の名残。
地面に刻まれた陣は、
ほとんど消えかけている。
それでも、
“使われた記憶”だけが残っている。
(……呼ばれた回数、多い)
境界の向こうで、
ネファル=ディアの気配が動いた。
(ここは)
(長く、使われている)
「でも……壊れてはいないですね」
(壊れる前だ)
その言葉に、
エレノアは足を止める。
(……間に合う、ってこと?)
(そうだ)
ネファル=ディアの返答は短い。
⸻
遺構の中心に立つと、
微かな気配が感じられた。
名を持たない。
姿も定まらない。
それでも、
そこに在ることだけは、確かだった。
「……大丈夫です」
自然と、そう声をかけていた。
どうしてこの言葉が出たのか、
分からない。
でも、
“今なら届く”気がした。
(……間に合う)
その感覚が、
胸の奥で、静かに確信へ変わる。
エレノアは、深く息を吸う。
「今日は……」
「呼ばれなくて、いいです」
命令ではない。
契約でもない。
ただ、
選択肢を置いた。
⸻
気配が、揺れる。
初めて、
“拒まれていない”反応。
エレノアは、
自分の手が震えていないことに気づいた。
(……怖くない)
成功するかどうかは、分からない。
でも、
失敗を恐れて立ち止まってはいない。
その違いが、
はっきりしていた。
境界の向こうで、
ネファル=ディアが静かに言う。
(今日のお前は)
(迷いが少ない)
「……そうですね」
(理由は)
「分かりません」
即答だった。
でも、
それでいいと思えた。
⸻
遺構を離れる頃、
空気は少しだけ和らいでいた。
完全に解決したわけじゃない。
ただ、
“これ以上悪くならない”状態を作った。
それだけ。
それなのに、
胸の奥が、静かに満たされている。
(……間に合った)
昨日のように、
強く意識したわけじゃない。
でも、
確かに感じた。
⸻
帰路につきながら、
エレノアはふと思う。
(……今日は、迷わなかった)
その理由を、
無理に探すのはやめた。
分からないままでも、
前に進めた。
それが、
今の自分にとっては、十分だった。
境界の向こうで、
ネファル=ディアが告げる。
(この選択を)
(続けるなら)
「……はい」
(いずれ)
(切る場面が来る)
エレノアは、歩きながら空を見る。
「……その時は」
「ちゃんと、迷います」
(それでいい)
その言葉に、
ほんの少しだけ、安心した。




