幕間 朝霧しおりの夜(理由)
夜だった。
仕事から帰り、
シャワーを浴びて、
髪を乾かして。
いつも通りの流れ。
テレビはつけていない。
音が欲しいわけじゃなかった。
しおりはベッドに腰掛け、
スマートフォンを手に取る。
特に見るものはない。
SNSも、ニュースも。
それでも、
指が画面をなぞってしまう。
「……変だな」
今日は、悪い日じゃなかった。
ミスもしていない。
怒られたわけでもない。
ちゃんと役に立てたと思う。
それなのに――
胸の奥が、じんわりと熱い。
苦しい、ではない。
でも、落ち着かない。
⸻
しおりは、深く息を吸って、吐いた。
「……間に合ったから、だ」
不意に、言葉が落ちた。
自分でも驚くほど、
はっきりした声だった。
「今日……間に合ったんだ」
誰かに言うわけでもなく、
説明する相手もいない。
それでも、
しおりは続けた。
「全部じゃないけど」
「全部は出来なかったけど」
指先を、
ぎゅっと握る。
「……でも、今日は」
「“手遅れじゃなかった”」
その言葉を口にした瞬間、
胸の奥が、少しだけ緩んだ。
⸻
しおりは、過去を思い出す。
入院していた頃。
動かない身体。
天井だけを見ていた時間。
「あの時は……」
間に合わなかった。
身体も、
仕事も、
関係も。
気づいた時には、
全部、少しずつズレていて。
戻そうとした時には、
もう形が変わっていた。
「……遅かった、ばっかりだったな」
誰かの言葉。
誰かの期待。
誰かの失望。
全部、
“あとから”知った。
その度に、
思った。
もっと早く気づいてたら
もっと違う選択をしてたら
でも、時間は戻らない。
⸻
しおりは、膝を抱える。
「だから……」
声が、少しだけ震える。
「今日は、嬉しいんだ」
理由が、
はっきりしてきた。
「誰かを救ったわけじゃない」
「世界が良くなったわけでもない」
「でも……」
しおりは、天井を見る。
「“遅くなかった”って感覚が、久しぶりで」
それが、
こんなにも、胸に響くとは思わなかった。
⸻
ベッドに横になり、
目を閉じる。
「……全部をやらなくていい」
そう、心の中で言う。
「全部を守れなくても」
「それでも……」
一つだけ、
間に合う場所があった。
それだけで、
今日は、救われた気がした。
「……だから、嬉しいんだ」
理由が分かったことで、
涙は出なかった。
ただ、
胸の奥に、静かな温度が残る。
⸻
意識が、ゆっくりと沈んでいく。
眠気とは違う。
でも、抗う必要もない。
(……また、あの場所かな)
畑の匂い。
夜の空気。
静かな世界。
「……行ってきます」
小さく呟く。
今日は、
“間に合った”から。
理由が分かっているから、
迷いはなかった。
⸻
しおりは知らない。
この夜、
遠い場所で――
同じ理由を言葉に出来ない誰かが、
同じ温度で、息をしていることを。
でも、
それでいい。
理解しなくても、
管理しなくても。
二人は、それぞれの人生で、
同じ場所に立っているだけだから。




