第62話 間に合った場所で
朝の空気は、澄んでいた。
エレノアは、まだ人の少ない街道を歩いている。
昨夜の雨が地面を湿らせ、土の匂いを濃くしていた。
「……ここですね」
リネアから渡された地図。
強く引かれた印が、一つ。
小さな集落。
川沿い。
異変の兆候あり。
――今回は、向かうと決めた場所だ。
それだけのことなのに、
胸の奥に、妙な重みがあった。
(……間に合いますように)
願いの形をしていることに気づいて、
エレノアは小さく息を吐いた。
⸻
集落は、まだ無事だった。
家は立ち、
人もいる。
朝の支度の音が、あちこちから聞こえる。
それだけで、
胸の奥が、ほんの少し緩む。
「……よかった」
誰に聞かせるでもなく、
そう呟いた。
川辺に近づくと、
異変の兆しが、はっきりと見えてきた。
水位が、安定しない。
流れが、場所ごとに引っかかるように途切れている。
暴走ではない。
怒りでもない。
ただ――
流れ続けることを、やめられない。
「……水精霊、ですね」
エレノアはしゃがみ込み、
指先を水に沈めた。
冷たい。
それなのに、
どこか張りつめている。
(……苦しい)
そう感じた理由は、分からない。
水に触れただけだ。
異常を確認しただけ。
それなのに、
胸の奥が、わずかに痛んだ。
⸻
「旅の方か」
声をかけられ、振り返る。
村の長老だった。
「川の様子が、おかしくてな」
「はい」
「少し、見させてください」
「……召喚士、か?」
その問いに、
エレノアは一瞬だけ迷い、頷いた。
「はい」
「でも、戦いには来ていません」
長老は、戸惑ったように眉を寄せる。
「戦わん……?」
「止めに来ました」
言い切った自分の声に、
エレノアは、少しだけ驚いた。
(……どうして、こんな言い方をしたんだろう)
理由は、分からない。
ただ、
そう言わなければいけない気がした。
⸻
再び川に向き直る。
境界の向こうで、
ネファル=ディアの気配が、静かに寄り添う。
(今回は)
言葉にならない問いが、伝わる。
エレノアは、ほんの少し考えてから、心の中で応じた。
(……止める、じゃないです)
(休ませたい)
即座に理解されたわけではない。
でも、
拒まれもしなかった。
⸻
エレノアは、静かに呼びかける。
「……大丈夫です」
命令ではない。
契約でもない。
「今日は、流れなくていい」
水面が、わずかに揺れた。
精霊の気配が、
初めて“迷う”。
(……ずっと、流れていたんだ)
そう思った瞬間、
胸の奥が、きゅっと縮む。
理由は、分からない。
ただ、
それが、間違っていた気がした。
「……役目だったんですね」
声に出すと、
自分の喉が、少し震えた。
どうして、こんな言葉が出てきたのか。
分からない。
でも、
止めたくなった。
「……今日は、休んでいいです」
その言葉が、
誰に向けられたものなのか。
エレノア自身にも、
はっきりとは分からなかった。
⸻
川の流れが、
ゆっくりと落ち着いていく。
水位が安定し、
岸辺の草が、静かに揺れた。
「……戻った」
村人の誰かが、呟く。
エレノアは、立ち上がった。
胸の奥に、
はっきりとした感覚が残っている。
――嬉しい。
理由は、言葉に出来ない。
ただ、
間に合った。
それだけで、
呼吸が楽になった。
境界の向こうで、
ネファル=ディアが、低く告げる。
(……お前)
(今、顔が違う)
「……そうですか」
(後悔ではない)
(選んだ結果の顔だ)
エレノアは、何も答えなかった。
ただ、
その言葉が、胸に残った。
⸻
その夜。
工房に戻り、
エレノアは記録をつけていた。
川の状態。
精霊の反応。
明日以降の経過観察。
淡々と書いているはずなのに、
ペンが、何度か止まる。
(……どうして、こんなに)
嬉しいのか。
安堵しているのか。
理由は、分からない。
でも、
分からないままでもいい気がした。
エレノアは、ふと手を止め、
小さく息を吐く。
「……今日は」
それ以上、言葉が続かなかった。
ただ、
間に合った。
その事実だけが、
静かに胸を満たしていた。




