幕間 朝霧しおりの夜
夜だった。
部屋の灯りは、つけたまま。
消す理由も、消さない理由もなかった。
机の上には、
やるべきことの記録。
引き継ぐためのメモ。
次の予定の整理。
紙はきれいに揃っている。
文字も乱れていない。
――なのに。
「……終わってない」
しおりは、そう呟いた。
今日の仕事は終わった。
やるべきことはやった。
誰かに迷惑をかけたわけでもない。
それでも、
何かだけが、終わっていない。
スマートフォンの画面を点けては消し、
また点ける。
通知はない。
連絡もない。
(……当たり前か)
誰かがいなくなったわけじゃない。
事故が起きたわけでもない。
でも、
「もう戻らない場所」が増えた気がした。
⸻
椅子にもたれ、天井を見上げる。
エアコンの音。
時計の秒針。
遠くを走る車の音。
全部、いつも通り。
なのに、
胸の奥だけが、少し冷たい。
(……助けられなかった、って感覚)
しおりは、自分で驚いた。
誰を?
何を?
具体的な顔も、出来事も、浮かばない。
それでも、
“間に合わなかった”という感覚だけが、残っている。
「……変なの」
そう言って、笑おうとして、やめた。
無理に形を作る必要はない。
⸻
机の端に置いた古いノートに、
指が触れた。
以前の仕事で使っていたもの。
今はもう、開くことも少なくなった。
ページをめくる。
忙しかった頃の文字。
勢いのある線。
余白の少ない書き方。
(……前は、全部やろうとしてたな)
出来ていた、と思っていた。
身体も動いていた。
気力もあった。
それでも――
失ったものは、ある。
「……全部は、無理なんだよね」
誰に向けた言葉でもない。
ただ、
胸の奥に落とすための言葉。
しおりは、ノートを閉じた。
⸻
ベッドに横になる。
目を閉じても、
すぐには眠れない。
頭の中に、
名前の分からない誰かの姿が浮かぶ。
顔も、声も、分からない。
でも――
待っていた、という感覚だけがある。
「……ごめん」
小さく、呟く。
謝る理由はない。
でも、言わずにはいられなかった。
(もし、もう少し早く気づいてたら)
(もし、違う選択をしてたら)
考えても、答えは出ない。
それでも、
考えてしまう。
それが、しおりだった。
⸻
ふと、
胸の奥が、静かに沈んでいく。
眠気とは違う。
意識が、
ゆっくりと深く、潜っていく感じ。
(……また、だ)
抗おうとせず、
身を委ねる。
怖くはない。
もう、知っている感覚。
「……行ってきます」
誰もいない部屋で、
そう呟いた。
返事はない。
でも、
この世界に残すものは、
ちゃんと整えてきた。
やるべきことの記録。
引き継ぐためのメモ。
次の予定の整理。
――大丈夫。
だから、
少しだけ、離れる。
⸻
畑の匂いがした。
夜の空気。
湿った土。
しおりの意識は、
静かに、
向こう側へと溶けていく。
そのとき、
胸の奥にあった冷たさが、
ほんの少しだけ、和らいだ。
(……ここなら)
理由は分からない。
でも、
ここでは――
まだ、間に合う気がした。
⸻
エレノアは、
まだその夜の出来事を知らない。
ネファル=ディアも、
何も言わない。
それでも、
二つの世界で、
同じ喪失が、
同じ温度で、静かに共有されていた。




