第61話 選ばれなかった場所で
その知らせは、
朝の喧騒の中に、ひっそりと紛れて届いた。
最初は、ただの噂だった。
「北の交易路が、通れなくなったらしい」
「橋が落ちたとか」
「いや、橋じゃない……谷そのものが」
情報は曖昧で、
誰も確かなことを言わない。
エレノアは工房で手を止め、
リネアの方を見た。
「……場所は?」
リネアは、短く息を吐く。
「昨日、印を外したところ」
その一言で、
エレノアは理解してしまった。
(……あそこだ)
⸻
北の交易路沿いにある、小さな集落。
山と山の間。
地霊の影響を受けやすい土地。
異変は軽度。
兆候のみ。
だから、
“今すぐではない”と判断した場所。
エレノアは、何も言わず、地図を見下ろした。
点が、一つ。
昨日までは、ただの点だった。
「……どうなったんですか」
声が、少し低くなる。
リネアは、視線を逸らした。
「地盤が、抜けた」
「一気にじゃない」
「……段階的に、支えを失った」
「人は?」
「避難は、半分」
「残った人も、いる」
その“半分”という言葉が、
胸に刺さる。
「召喚士は?」
「いた」
「地霊と契約してた人が」
リネアは、言葉を探すように間を置いた。
「……地霊は、応じなかった」
エレノアの指先が、わずかに震える。
(……やっぱり)
⸻
現地の話は、後から断片的に伝わってきた。
地霊は、暴れなかった。
怒りもしなかった。
ただ、
支えるのをやめた。
「もう……無理だ」
それが、最後に聞こえた言葉だったという。
召喚陣は、古く、
何度も補修されていた。
呼ばれ続け、
支え続け、
それでも――
名は、呼ばれていなかった。
役割だけが、そこにあった。
⸻
エレノアは、工房を出た。
歩きながら、
胸の奥で何かが沈んでいくのを感じる。
(……行かなかった)
行けなかった。
選ばなかった。
理由は、正しかった。
全部は無理。
同時には無理。
頭では、分かっている。
それでも。
(……間に合わなかった)
境界の向こうで、
ネファル=ディアが、静かに口を開く。
(これは)
(お前の責任ではない)
エレノアは、すぐには答えなかった。
(選ばなかった結果だ)
(選んだ結果でもある)
短い沈黙。
(……違いは、分かっている)
(だが)
(心は、納得しない)
ネファル=ディアは、否定しなかった。
(それでいい)
(それが)
(お前が“切らない者”である理由だ)
その言葉は、
慰めではなかった。
むしろ、
逃げ道を塞ぐ言葉だった。
⸻
詰所では、
生き残った人たちの記録が進められていた。
やるべきことの記録。
引き継ぐためのメモ。
次の予定の整理。
エレノアは、机の端に立ち、
それを眺めていた。
「……名前、分かりますか」
職員が顔を上げる。
「え?」
「地霊と契約していた人」
「名前……」
職員は、書類をめくる。
「……正式な記録が、残っていません」
「呼び名はあったようですが……」
エレノアは、目を閉じた。
まただ。
名前が、
残らない。
「……ありがとうございました」
そう言って、
その場を離れる。
⸻
夜。
エレノアは、一人、灯りのない部屋に座っていた。
今日は、何も書けない。
報告も、整理も、
今は無理だった。
(……全部は無理)
自分で言った言葉が、
何度も、胸の中で反響する。
境界の向こうで、
ネファル=ディアは、じっとそこにいる。
(次は)
(どうする)
問いではない。
確認でもない。
未来の話だ。
エレノアは、しばらく沈黙したあと、答えた。
「……次は」
「迷ってる時間を、減らします」
(全ては救えない)
「分かっています」
(それでも)
「……声を、聞く順番を」
「もう少し、変えます」
ネファル=ディアは、ゆっくりと応じた。
(それが)
(選ぶ、ということだ)
エレノアは、膝の上で手を握りしめる。
今日、救えなかった場所がある。
それは、消えない。
でも――
だからこそ。
「……忘れません」
その言葉は、
誰に向けたものでもなかった。
ただ、
自分自身への約束だった。




