第60話 それでも、選ぶ
雨が降っていた。
強くはない。
ただ、止みそうで止まない雨。
エレノアは街の外れ、
簡易の詰所として使われている建物の軒下に立っていた。
木箱の上に置かれた地図。
濡れないよう、布を被せてある。
「……ここも、ですね」
小さく呟く。
この街でも、異変は起き始めていた。
まだ被害は出ていない。
だが、兆しはある。
井戸の水位が安定しない。
家畜が落ち着かない。
夜になると、空気が妙に張りつめる。
どれも、
「気のせい」で済まされる段階。
だからこそ、
一番、厄介だった。
⸻
「エレノア」
背後から、声。
振り返ると、リネアが立っていた。
濡れた外套を軽く払う。
「ここにも、出てる?」
「はい」
「まだ、軽いですけど」
リネアは地図を覗き込む。
印が増えている。
点が、確実に。
「……全部、回る気?」
その問いは、
責めではなかった。
ただの確認。
エレノアは、すぐには答えなかった。
雨音が、二人の間を埋める。
やがて、
エレノアはゆっくりと口を開いた。
「……無理です」
その一言は、
はっきりしていた。
リネアが、わずかに眉を上げる。
「珍しい言い方ね」
「はい」
「でも……全部は、見られません」
言葉にした瞬間、
胸の奥が、少しだけ軽くなる。
同時に、
怖さもあった。
認めてしまったら、
もう戻れない気がしていたから。
⸻
「今までなら」
エレノアは続ける。
「行けるところまで、行ってました」
「誰かが困っていたら」
「出来る範囲で、どうにかしようとして」
リネアは黙って聞いている。
「でも……」
エレノアは、地図の一角を指さす。
「これ、全部です」
「全部、“同じ方向”を向いてる」
「一つずつなら、向き合えます」
「でも、同時には……」
言葉が、途切れる。
(……言ってしまった)
境界の向こうで、
ネファル=ディアの気配が、静かに見守っている。
口を出さない。
それが、彼なりの距離感だった。
⸻
リネアは、少し考えてから言った。
「それで」
「あなたは、どうするつもり?」
エレノアは、深く息を吸う。
「選びます」
「選ぶ?」
「はい」
「“今、ここで聞こえている声”を」
正解ではない。
最善でもない。
でも――
嘘はない。
「見捨てる場所が、出ます」
そう言った時、
声が震えなかったことに、
エレノア自身が驚いた。
「それでも」
「全部を中途半端にするよりは……」
リネアは、ふっと笑った。
「やっと言ったわね」
「……え?」
「前から思ってた」
「あなた、抱えすぎだって」
リネアは、地図の端を押さえる。
「世界が壊れてるのは、あなたのせいじゃない」
「直せる場所があるのも、あなたのおかげ」
「その二つを、同時に背負う必要はない」
エレノアは、目を伏せた。
「……それでも」
「見えた場所は、放っておけません」
「知ってる」
リネアは、あっさり言う。
「だからこうする」
地図の上に、別の印を置く。
「ここは、別の人に任せる」
「ここは、経過観察」
「ここは……あなたが行く」
エレノアは、驚いて顔を上げる。
「……いいんですか」
「いいも何も」
「もう一人でやる段階じゃないでしょ」
リネアの声は、淡々としていた。
でも、
そこには確かな信頼があった。
⸻
夜。
詰所を出たエレノアは、
雨の中を歩いていた。
外套に水が染みる。
それでも、
足取りは、少しだけ軽い。
(……選んだ)
全部を、ではない。
でも、逃げてもいない。
境界の向こうで、
ネファル=ディアが、低く言う。
(後悔は)
「……しないとは、言えません」
正直な答え。
(だが)
「はい」
「それでも、進みます」
ネファル=ディアは、短く応じる。
(ならば)
(俺は、切る準備をする)
エレノアは、立ち止まった。
「……まだ、切らないでください」
(分かっている)
(だが)
(限界は、近い)
その言葉は、
脅しではなかった。
警告でもない。
ただ、
未来の共有。
エレノアは、雨の中で空を見上げる。
雲の向こうに、星は見えない。
それでも――
夜が明けることだけは、知っている。
「……一つずつ、です」
自分に言い聞かせるように。
世界は、まだ壊れていない。
でも、待ってもくれない。
選び続けること。
立ち止まらないこと。
それが、
今のエレノアに出来る、唯一の在り方だった。




