第59話 重なり合う核
朝の光が、工房の床に落ちていた。
エレノアは机に地図を広げ、
昨夜リネアから受け取った報告書を、静かに読み返している。
海。
山。
戦場跡。
小さな集落。
場所は違う。
状況も違う。
それでも、
どの報告にも、同じ言葉が並んでいた。
――倒せない。
――暴れていない。
――理由が分からない。
「……同じですね」
独り言のように呟き、
エレノアは紙の端に、短い線を引いた。
異変の“形”ではなく、
“在り方”が似ている。
(力が過剰なわけじゃない)
(意思が敵対しているわけでもない)
なのに、
生活だけが壊れていく。
「……戦う人ほど、困る」
そう口に出した瞬間、
境界の向こうで、
ネファル=ディアの気配が、わずかに応じた。
(当然だ)
(これは戦闘対象ではない)
エレノアは、ペンを置く。
「……あなたは、もう分かってますね」
沈黙。
だが、
否定はなかった。
⸻
昼前、リネアが再び訪れた。
今度は書類ではなく、
口頭での報告だった。
「各地のギルドが、同じ判断を出し始めてる」
「……撤退、ですか」
「一時的にね」
リネアは肩をすくめる。
「深入りすると、被害が増える」
「でも、放置しても回復しない」
エレノアは、視線を地図に戻す。
「共通点は、ありますか」
「ある」
リネアは即答した。
「どの異常も、“呼ばれた痕跡”がある」
その言葉に、
エレノアの指が止まる。
「召喚陣……?」
「完全な形じゃない」
「古かったり、簡略化されてたり」
「もう使われていないはずの場所も多い」
「でも」
リネアは言葉を選ぶ。
「どこも、呼ばれ続けた場所だ」
エレノアは、静かに息を吸った。
(……やっぱり)
畑。
森。
名を失った存在。
全部、
同じ方向を指している。
⸻
その夜。
エレノアは灯りを落とし、
一人、椅子に座っていた。
考えないようにしても、
思考は自然と、同じ場所へ戻る。
「……ねえ」
名は呼ばない。
でも、問いかける。
(これは、一つの存在ですか)
境界の向こうで、
ネファル=ディアは、しばらく沈黙した。
やがて、
低く、慎重な感触が返ってくる。
(“一つ”ではない)
(だが、無関係でもない)
エレノアは、目を閉じる。
(……集合、ですか)
(近い)
ネファル=ディアの気配が、
ほんのわずか、重くなる。
(呼ばれた)
(使われた)
(忘れられた)
(それぞれは小さい)
(だが、数が多すぎる)
エレノアの胸が、
きゅっと縮む。
「……世界が、耐えられなくなってる」
(そうだ)
否定はなかった。
(世界は)
(切り離すことで、均衡を保ってきた)
(だが)
(切り離しすぎた)
その言葉は、
責めでも、警告でもない。
事実の提示だった。
⸻
翌朝。
街は、いつも通り動いている。
市場は開き、
人々は行き交い、
パンの匂いが漂う。
それでも、
エレノアの目には、
薄い歪みが見え始めていた。
誰かが、
理由もなく水を買い溜めている。
別の誰かが、
護符を握りしめて歩いている。
恐怖は、
まだ形になっていない。
だからこそ、
広がりやすい。
(……全部は、見られない)
初めて、
エレノアはそれを、はっきりと自覚した。
(全部を救おうとしたら)
(どこも救えなくなる)
境界の向こうで、
ネファル=ディアが、静かに応じる。
(理解が、早いな)
「……嬉しくないです」
(それでも)
(理解した者だけが、選べる)
エレノアは、ゆっくりと歩き出す。
次に向かう場所を、
もう一度、地図で確かめる。
点と点を結ぶのではなく、
核に近い場所を。
「……一つずつ、です」
世界規模の異変。
集合体の兆し。
それでも、
向き合い方は変わらない。
一つの声に、耳を澄ます。
一つの関係を、ほどく。
その積み重ねしか、
この世界には、残されていなかった。
境界の向こうで、
ネファル=ディアは、歩調を合わせる。
切るべき時が来るかもしれない。
だが――
まだ、来ていない。
その判断を、
二人は共有していた。




