第57話 壊れたままの名前
村を出て、半日ほど歩いた頃だった。
森の空気が、
明らかに変わった。
湿り気があるのに、
呼吸が浅くなる。
「……ここ、ですね」
エレノアは立ち止まる。
地図には、
ただの林としか書かれていない場所。
だが――
足元の草は踏み荒らされ、
木々の幹には、
古い召喚陣の痕跡が刻まれていた。
「ずいぶん、前のものですね」
風化している。
それでも、消えてはいない。
境界の向こうで、
ネファル=ディアの気配が、わずかに鋭くなる。
(ここは)
(“呼び場”だ)
短い断定。
「……誰かが、ここで何度も呼んだ」
(そして)
(何度も、置き去りにした)
エレノアは、喉の奥が少し痛くなる。
⸻
森の奥で、人の声がした。
「……まだ、出てこないのか」
男の声。
焦りと、苛立ちが混じっている。
エレノアは音を立てずに近づく。
木立の向こう。
そこにいたのは、一人の召喚士だった。
年若くはない。
だが、熟練とも言えない。
「おかしい……」
「こんなはずじゃ……」
足元には、
歪んだ召喚陣。
その中央で、
“何か”が揺れていた。
姿は定まらない。
獣のようでもあり、
影のようでもある。
だが――
明らかに、苦しんでいる。
エレノアは、前に出た。
「……失礼します」
召喚士が振り返る。
「誰だ!?」
「ここは――」
言葉が止まった。
エレノアの視線は、
召喚陣ではなく、
その“存在”を見ていた。
「……あなた」
「名前、ありますか」
召喚士が眉をひそめる。
「名前?」
「そんなもの……」
言いかけて、止まる。
「……最初は、あった」
「でも、もう必要ないだろう」
「力さえ出せばいい」
エレノアは、静かに息を吸った。
「必要、ない……?」
「そうだ」
「呼べば来る」
「戦えばいい」
「それだけだ」
召喚士の声は、
正論の形をしていた。
効率。
合理。
役割分担。
どれも、間違っていない。
――だからこそ、厄介だ。
⸻
エレノアは、召喚陣の縁にしゃがみ込む。
「……ねえ」
声をかける先は、
召喚士ではない。
陣の中央で、
揺れている存在だ。
「あなた、
ここから出たいですか」
一瞬、
空気が凍る。
召喚士が叫ぶ。
「何をしてる!」
「勝手に――」
だが、
エレノアは動じない。
揺れる存在が、
わずかに、形を変えた。
それは、
“応答”だった。
境界の向こうで、
ネファル=ディアが、低く告げる。
(これは……)
(名を失った召喚存在だ)
(呼ばれすぎて)
(自分が何か、分からなくなっている)
エレノアは、胸が締めつけられる。
「……あなた」
「戦うために、ここにいますか」
答えは、返ってこない。
だが――
拒絶も、ない。
ただ、
“待っている”。
何を?
誰を?
「……あなたは」
エレノアは、言葉を選ぶ。
「誰かに、呼ばれたかったんですか」
「それとも……」
「呼ばれない場所が、欲しかったんですか」
召喚士が、苛立ちを隠さず言う。
「そんな感情、あるわけが――」
ネファル=ディアが、一歩前に出た。
姿は、まだ見せない。
だが、
圧が、違った。
(黙れ)
短い一語。
召喚士の言葉が、喉で止まる。
(この存在は)
(“力”ではない)
(呼ばれることで)
(存在を保ってきた)
(だが)
(名を呼ばれなかった)
(それが、壊した)
森が、ざわめく。
召喚士の顔が、青ざめる。
「……名、だと?」
エレノアは、静かに続けた。
「あなたは、正しいことをしてきたと思います」
「呼び、使い、解放する」
「この世界では、普通です」
「でも」
エレノアは、まっすぐにその存在を見る。
「普通すぎたんです」
召喚士が、かすれた声で言う。
「……じゃあ、どうすればよかった」
エレノアは、すぐには答えなかった。
代わりに、
揺れる存在に語りかける。
「……もし」
「名前を呼ばれるのが、嫌なら」
「もう、ここにいなくていいです」
その瞬間。
召喚陣が、
音もなく、崩れ始めた。
魔力が散る。
だが、暴走しない。
揺れていた存在が、
ふっと、輪郭を失う。
逃げたのではない。
――ほどけた。
森の空気が、
一段、軽くなる。
⸻
召喚士は、その場に崩れ落ちた。
「……俺は」
「何を、していたんだ」
エレノアは、静かに答える。
「呼んでいただけです」
「向き合っては、いなかった」
責める声ではない。
事実を、置いただけ。
ネファル=ディアは、
エレノアを見た。
(切らなかったな)
「はい」
(それで、良かった)
その言葉は、
彼にとっては、譲歩だった。
エレノアは、少しだけ微笑む。
「……でも」
そう前置きして、続ける。
「全部が、こうはいきません」
「次は……」
「もっと、壊れているかもしれない」
ネファル=ディアは、否定しなかった。
(その時は)
(俺が前に出る)
エレノアは、目を伏せる。
「……その前に」
「出来ること、探します」
二人の間に、
短い沈黙。
それは、対立ではない。
役割の違いを、理解した沈黙だった。
⸻
森を出ると、
空が、わずかに曇っていた。
世界の悲鳴は、
まだ続いている。
だが、
一つだけ、確かなことがある。
これは、
“倒す敵”ではない。
壊れた関係の、積み重ね。
エレノアは歩き出す。
次の場所へ。
次の、声へ。
普段の生活に戻るには、
まだ少し、時間がかかりそうだった。
それでも――
戻れる場所が、ある。
そのことが、
彼女を前へ進ませていた。




