第56話 境界に立つ者
夜明け前。
村は、まだ眠っていた。
エレノアは畑の端に立ち、
冷えた空気を胸いっぱいに吸い込む。
作物は相変わらず青く、
葉は張りつめ、
土の奥では根が絡み合っている。
「……休ませる、って言いましたけど」
独り言のように呟き、
エレノアは指先を土に沈めた。
温かい。
夜のはずなのに、
地面が、妙に熱を持っている。
(休めていない)
育つことを、
止められない。
止まるという選択肢を、
最初から与えられていない。
エレノアは、静かに目を閉じた。
「……来てください」
声に出す。
命令ではない。
呼び出しでもない。
ただ、
一緒に見てほしいという呼びかけ。
空気が、変わった。
音もなく、
光もなく。
けれど、
世界の“輪郭”が、わずかにズレる。
境界が、
一歩だけ、近づいた。
村の畑に、
“影”が落ちる。
それは、形を持たない影だった。
背後の村人たちが、
息を呑む気配が伝わってくる。
「……な、何だ」
誰かが、かすれた声を上げた。
エレノアは振り返らない。
「大丈夫です」
「何もしません」
そう言って、
正面の“気配”に意識を向ける。
ネファル=ディアは、
姿を現さなかった。
剣も、翼も、
威圧もない。
ただ――
境界そのものが、立っている。
土の奥で、
絡み合っていた根が、
ぴたりと動きを止めた。
ざわめいていた葉が、
静かに、垂れる。
村人たちは、
はっきりと分かった。
何かが、
止められている。
「……あれが」
「召喚、なのか……?」
誰かの呟き。
エレノアは、小さく首を振った。
「いいえ」
「呼びましたけど」
「使ってはいません」
境界の向こうから、
低く、落ち着いた感触が届く。
(止めるだけなら)
(切らずに済む)
エレノアは、ほっと息を吐いた。
「ありがとうございます」
(礼は、いらない)
(これは……当然の調整だ)
その言葉に、
エレノアは少しだけ微笑んだ。
⸻
ネファル=ディアは、
“何かをした”わけではない。
魔力を流したわけでも、
力を押し付けたわけでもない。
ただ――
そこに在った。
役割を与えられすぎたものに、
「今は何もしなくていい」
という選択肢を示した。
それだけ。
それなのに、
畑の空気は、明らかに変わっていた。
土の熱が、引いていく。
根が、少しずつ、緩む。
「……生き物、みたいだ」
村人の一人が、
ぽつりと呟いた。
エレノアは、頷いた。
「はい」
「生き物です」
「でも……畑だぞ?」
「畑に育つものも、です」
言い切る声に、
迷いはなかった。
⸻
しばらくして、
村長が恐る恐る近づいてくる。
「これは……」
「いつまで、続くんですか」
エレノアは、少し考えた。
「今日は、このままです」
「急に戻すと、余計に不安定になります」
「じゃあ……」
「明日から、少しずつ」
「育たない時間を、作ります」
村長は目を見開いた。
「育たない……?」
「はい」
「何もしない日を、作るんです」
誰かが、戸惑い混じりに言う。
「それで……大丈夫なのか?」
エレノアは、はっきりと答えた。
「大丈夫に、します」
戦うからでも、
強いからでもない。
“向き合う”と決めた人の声だった。
⸻
やがて、
ネファル=ディアの気配が、
一歩、後ろに下がる。
役目は、終わった。
(……交戦の必要はなかった)
(はい)
(だが)
一瞬、間があった。
(次は)
(ここだけでは済まない)
エレノアは、目を伏せた。
「……分かっています」
これは、
村一つの問題じゃない。
世界の奥で、
同じことが、
何度も、何度も起きている。
今回は、
たまたま――
間に合っただけ。
ネファル=ディアは、
それ以上何も言わなかった。
だが、
彼の立ち位置は、確かに変わっていた。
“見守る者”から、
“共に境界に立つ者”へ。
⸻
夜が明ける。
畑は、静かだった。
作物は、育っている。
けれど、
“必死さ”が、消えている。
村人たちは、
恐る恐る畑に入った。
「……抜ける」
誰かの声。
根は、まだ強い。
でも、抵抗はしない。
「……ありがとう」
その言葉は、
誰に向けられたものか、分からない。
エレノアは、少し離れた場所で、
その光景を見守っていた。
(……ここは、これで大丈夫)
でも――
世界の悲鳴は、止まっていない。
むしろ、
“聞こえるようになってしまった”。
エレノアは、胸の奥で、静かに思う。
(次は……もっと、厄介ですね)
境界の向こうで、
ネファル=ディアは、
ゆっくりと歩き出した。
今度は、
止めるだけでは済まない場所へ。




