第54話 準備という名の選択
朝の工房は、静かだった。
エレノアは棚の前に立ち、
素材の瓶を一つひとつ確認していく。
乾燥させた薬草。
簡易解毒用の粉末。
保存食に向く干し果実。
「……足りないですね」
独り言のように呟き、
小さくメモを取る。
畑で感じた違和感。
市場の落ち着かない空気。
リネアが落とした、何気ない噂。
どれも「すぐ危険」ではない。
けれど――
このまま何もせずにいるのは、違う。
エレノアは、鞄を引き寄せた。
遠出用。
戦闘用ではなく、生活用の装備だ。
包帯。
縫い糸。
簡易調理器具。
「……ほんと、戦いに行く人の準備じゃないですね」
苦笑しながらも、手は止まらない。
こういう準備をしているとき、
エレノアの頭は、不思議と静かになる。
やるべきことが、
順番に並んでいく。
⸻
工房の外で、足音がした。
「準備、早いね」
リネアだった。
「遠くへ行くつもり?」
「遠く、というほどでは……」
エレノアは言葉を選ぶ。
「でも、少し外れた場所です」
「依頼?」
「いえ。様子を見に行くだけです」
リネアは腕を組んだ。
「それが一番危ないやつだって、
分かって言ってる?」
エレノアは少し困ったように笑う。
「……はい」
リネアはため息をついた。
「同行はしないよ」
「分かっています」
即答だった。
リネアは、その反応を見て少し目を細める。
「理由、聞かないんだ」
「聞かなくても、想像はつきます」
「じゃあ、言わない」
そう言って、リネアは一枚の紙を差し出した。
「地図の写し」
「最近、妙な報告が重なってる場所に印をつけてある」
エレノアは受け取り、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「……無理はしないで」
「はい」
その一言に、
余計な条件はついていなかった。
それが、リネアなりの信頼だった。
⸻
街を出る前、
エレノアは市場に立ち寄った。
薬草商に声をかけ、
乾燥の状態を確認する。
「これ、いつ採れたものですか?」
「昨日だが……妙に水分が抜けるのが早い」
「土は?」
「……元気すぎる」
同じ言葉が、重なる。
エレノアは必要な分だけ買い、
代金を払った。
「無事でな」
商人の一言に、
エレノアは少しだけ驚く。
「……はい」
“行く”と、
言っていないのに。
(もう、分かる人には分かるんですね)
それは少し怖くて、
でも、逃げたくはなかった。
⸻
街道に出ると、
空気が変わった。
肌に触れる風が、
わずかに重い。
「……来てますね」
声に出さず、意識だけで伝える。
境界の向こうで、
ネファル=ディアが歩調を合わせる。
姿は見えない。
声もない。
けれど、
“一人ではない”感覚だけが、確かにあった。
(前に出なくていいです)
そう伝えると、
返ってきたのは、短い感触。
了承。
それだけ。
エレノアは深く息を吸い、歩き続ける。
道中、
異変は小さな形で現れた。
・倒木の根が異様に張っている
・苔が、石を覆い尽くす速度が早い
・水場の匂いが変わっている
どれも、
戦えばどうにかなる類ではない。
「……これ、戦う人ほど困るやつですね」
剣では切れない。
魔法でも消えない。
ただ、
向き合わないと分からない異常。
エレノアはしゃがみ込み、
土を少しだけ掘った。
指先に伝わる感触は、
畑で感じたものと同じだった。
(重なってる……)
一つ一つは弱い。
でも、数が多い。
声にならない声が、
互いに干渉し合っている。
その奥で、
ネファル=ディアの気配が、
わずかに強まった。
(……切る?)
問いではなく、
可能性としての提示。
エレノアは、首を振る。
(まだです)
(切ったら、分かりやすくなります)
(でも、原因は残ります)
しばらく、沈黙。
やがて、
境界の向こうから、静かな同意が落ちてきた。
待つ。
エレノアは、ほっと息を吐いた。
「ありがとうございます」
返事はない。
でも、
その距離感が、今はちょうどよかった。
⸻
日が傾き始める。
エレノアは、地図に印をつけた。
•土の異常
•水の匂い
•植生の偏り
まだ一つの点だ。
線にも、面にもなっていない。
けれど――
確実に、始まっている。
(これは……戻ってから、整理しないと)
今日は、深入りしない。
準備のための外出。
情報を集めるための一歩。
それでいい。
エレノアは踵を返した。
背後で、
風が一度だけ、強く吹いた。
まるで――
「見ていた」と言うように。
エレノアは振り返らず、
歩き続ける。
まだ、
普段の生活に戻れる。
でも次は、
戻るだけでは済まない。
そんな予感だけを、
胸に残して。




