第52話 応答する者の距離
朝の街は、少し騒がしかった。
市場の声。
荷車の音。
人と人が擦れ合う気配。
エレノアは、その中心を歩きながら、
いつもより視線を集めていることに気づいていた。
「……」
直接話しかけられるわけではない。
指を差されるわけでもない。
ただ、
見られている。
昨日までとは違う視線だ。
興味。
探り。
そして、ほんのわずかな警戒。
(……始まった、ですね)
エレノアは、心の中でそう呟いた。
戦わずに召喚を止めた。
強引な契約を壊さずに終わらせた。
それは称賛でも、
完全な理解でもない。
「何をする人なのか、分からない」
そう思われる段階だ。
それでも――
逃げるつもりはなかった。
⸻
工房に入ると、すでにリネアがいた。
椅子に腰掛け、腕を組み、
珍しく真面目な顔をしている。
「……早いですね」
「噂って、走るの早いから」
リネアはため息をつく。
「今朝だけで、三人に聞かれたよ」
「“エレノアって、何者?”って」
エレノアは苦笑した。
「……何者でもないです」
「そう言うと思った」
リネアは肩をすくめる。
「でもね」
「もう、その言い訳は通らなくなってきてる」
エレノアは黙る。
分かっていた。
“何もしない”という立場は、
目立たないうちは成立する。
でも、
結果を出してしまった後は違う。
「召喚士として、見られ始めてる」
リネアは続ける。
「しかも、“よく分からないタイプ”として」
「……悪い意味ですか?」
「悪いとも、良いとも言えない」
リネアは少し笑う。
「でもね、私は好きだよ」
「あなたが“分からない側”にいるの」
エレノアは首を傾げる。
「……どういう意味ですか」
「簡単」
リネアは指を一本立てる。
「使えないから」
「命令できないから」
「期待通りに動かないから」
それは、
この世界では“厄介”だ。
「だから、ちゃんと考える人が集まってくる」
エレノアは小さく息を吐いた。
「……面倒ですね」
「うん、面倒」
リネアは即答した。
「でも、もう引き返せない」
エレノアは、胸の奥で名前を確かめる。
(……ネファル)
呼ばない。
でも、意識する。
その距離感が、今はちょうどいい。
⸻
昼過ぎ、工房に客が来た。
見覚えのある冒険者だった。
昨日、街外れで一緒にいた一人。
「……時間、いいか」
「どうぞ」
エレノアは席を勧める。
冒険者はしばらく黙っていたが、
意を決したように口を開いた。
「昨日のことだ」
エレノアは頷く。
「……何で、戦わなかった?」
直球だった。
エレノアは少し考える。
答えはいくつもある。
でも、選ぶ。
「……必要なかったからです」
冒険者は眉をひそめる。
「でも、危なかった」
「はい」
「失敗したら?」
エレノアは視線を落とさず答える。
「その時は……責任を取ります」
冒険者が息を飲む。
「命を賭ける、って意味じゃありません」
エレノアは続ける。
「壊したなら、
その壊れた関係を、
最後まで見る、という意味です」
冒険者はしばらく黙り、
やがて小さく笑った。
「……召喚士ってのは、
力を扱う職だと思ってた」
「私も、そう思ってました」
「今は?」
エレノアは、少しだけ間を置く。
「……関係を扱う職だと思っています」
冒険者は深く息を吐いた。
「厄介だな」
「はい」
「でも」
冒険者は立ち上がる。
「……嫌いじゃない」
それだけ言って、工房を出て行った。
エレノアは、しばらくその背中を見送った。
⸻
夜。
工房の灯りを落とした後、
エレノアは静かに椅子に座った。
今日一日、
呼ばなかった。
でも、意識はしていた。
(……近い)
境界の向こう。
ネファル=ディアは、今日も“在った”。
彼は出ない。
呼ばれていないからではない。
必要がないからだ。
それを、エレノアは理解し始めていた。
「……ねえ」
小さく、問いかける。
声に出さない。
名も呼ばない。
(私は、ちゃんと見られ始めました)
それは報告のようで、
決意表明のようでもあった。
(逃げませんでした)
境界の向こうで、
ネファル=ディアはそれを受け取る。
今日、彼が前に出る理由はなかった。
だが――
一言だけ、
意味が動いた。
それは言葉ではない。
音でもない。
**“肯定”**という方向性だけが、
エレノアの内側に落ちる。
(……うん)
エレノアは、深く息を吐いた。
それで十分だった。
呼ばない。
でも、孤独ではない。
その距離が、
今の二人には、最も正しかった。
窓の外、星がひとつ瞬く。
エレノアは、静かに目を閉じた。
「……おやすみなさい」
返事はない。
けれど、
世界はきちんと、応答していた。




