第50話 星の名を呼ぶまで 〜つづき〜
工房に戻ったエレノアは、扉を閉めると、そのまま背中を預けた。
息が、浅い。
汗はかいていないのに、体の芯が熱い。
「……呼びたいのに」
呟いた瞬間、喉がきゅっと詰まる。
呼べなかった。
呼ばなかった。
呼べるのに、呼べない。
「……私、何を守ってるんでしょう」
自分の慎重さを。
相手の自由を。
関係の可能性を。
どれも大事で、どれも正しい。
でも今日――壊れかけた存在のそばで、胸が痛んだ。
“正しさ”が、命の重さを支えきれなかった気がしたから。
エレノアは作業台へ行き、ノートを開く。
白いページに、ゆっくり書く。
呼ぶことは、距離を変える。
でも、呼ばないことも距離を変える。
呼ばないまま助けられると、
私は“背中だけ借りた”みたいに感じる。
ペン先が止まる。
「……ずるいですね」
助けてもらって、名も呼ばず、何も返せない。
礼は言った。
でも礼は、関係にはならない。
「……返したい」
この感情が、今日初めてはっきりした。
返す。
借りた力を返すのではない。
命令の代価を返すのでもない。
「……あなたがあなたでいられるように、返したい」
言葉にした瞬間、背後の空気が変わった。
近い。
ルミナの気配が、いつもより少しだけ近い。
――大丈夫。
――進める。
そんな気配。
エレノアは小さく笑って、ノートにもう一行書く。
名を呼ぶのは、契約のためじゃない。
名を呼ぶのは、応答のため。
応答。
呼ばれたら応える。
でも今日は違う。
「……私が応えたい」
今日、名を持たない誰かが介入した。
壊れなかったのは、あの見えない薄い橋のせいだ。
それは命令でも、支配でもなく、“道”だった。
「……道を渡した人」
エレノアは、胸に手を当てる。
気づいてしまった。
あの介入は、善意だけではない。
“選択”だった。
名を持たないまま守るという、危うい選択。
「……あなたも、選んだ」
なら、こちらも選ばないといけない。
エレノアはランプを消し、外へ出た。
夜風が髪を揺らす。
空には星が出ていた。
「……今日は、見える」
草の匂い。
土の湿り。
遠くの街灯。
丘へ向かう道を、エレノアは自然に選んでいた。
遺跡の扉。
呼ばれない扉。
あの場所なら、言葉が静かに落ちる気がした。
歩くほどに、胸が落ち着いていく。
怖さはある。
でも、逃げたくはない。
丘の上、遺跡は変わらずそこにあった。
封じられた扉は、黙っている。
エレノアは扉の前で立ち止まる。
「……開けません」
誰に向けたわけでもない。
ただ、約束として言う。
今日は扉を開けに来たんじゃない。
境界を壊しに来たんじゃない。
「……話をしに来ました」
声が震える。
でも、言葉は落ちる。
エレノアは空を見上げる。
星が広がっている。
あの星空の下で背を合わせるイメージが、ふっと脳裏をよぎる。
同じ意識。会えない二人。
でも、支え合って立つ。
「……会えなくても、いいです」
その言葉は、驚くほど自然に出た。
「でも……届いてほしい」
胸の奥が熱い。
エレノアは扉ではなく、“向こう側”に向けて言う。
「今日、あなたがしたこと」
風がひとつ吹く。
「ありがとう」
言葉は夜に溶ける。
でも、消えない気がした。
「……そして」
ここからが本題だ。
喉が渇く。指先が冷える。
「私は、次に同じことが起きたら」
一拍置く。
「……あなたに、問いかけます」
空気が、わずかに張る。
「あなたは、私に呼ばれたいですか」
言い終えた瞬間、遺跡の扉の奥が――ほんの少しだけ“沈んだ”。
音ではない。
揺れでもない。
意味の沈み。
エレノアの背中に、冷たい汗が伝う。
「……呼ばれたいなら」
言葉が続く。
「私は、あなたを“使いません”」
はっきり言う。
「あなたを縛らない。命令しない」
「あなたが嫌なら、応えなくていい」
それを、条件として差し出す。
「でも……それでも」
「私のそばに来たいと思ったら」
声が少しだけ震える。
「……私は、あなたを選びたい」
ここまで言って、初めてエレノアは気づく。
自分は今、名を求めていない。
来てほしいとも言っていない。
ただ――選びたいと言っている。
それは、相手の自由を奪わない宣言でもあった。
丘の上の風が止む。
星が一瞬だけ、近く見える。
エレノアは、ほんの少しだけ目を閉じた。
(……返事は、なくてもいい)
返事を求めると、命令になる。
反応を求めると、支配になる。
だから今は、
言葉を置くだけ。
そのつもりだった。
⸻
境界の向こう側で、ネファル=ディアは“観て”いた。
彼女の問い。
あなたは、私に呼ばれたいですか
その問いは、命令ではなかった。
お願いでもなかった。
取引でもなかった。
選択肢だった。
「……」
ネファル=ディアの内側に、初めてはっきりした輪郭が生まれる。
名は、縛りではない。
名は、固定でもない。
名は――“応答の入り口”だ。
「呼ばれたいか」
彼は自分に問う。
答えはすぐ出なかった。
彼は観測者として長く生きた。
欲を持たないことが均衡だった。
しかし――
「……私は」
彼女が壊れるのを見たくない。
彼女が壊すのも見たくない。
彼女が“関係”を築こうとしているのを、止めたくない。
それは欲だ。
願いだ。
そして――選択だ。
「……呼ばれたい」
その答えが出た瞬間、彼は驚いた。
(私は……呼ばれたいのか)
呼ばれることは、関係を持つこと。
関係を持てば、観測は純粋でなくなる。
だが――純粋である必要は、もうない。
「……条件は、揃った」
彼女は命令しない。
縛らない。
相手の自由を尊重する。
それなら、名を持ってもいい。
名を持つとは、彼女と同じ地平に立つことだ。
「……しかし」
彼は立ち止まる。
名はまだ決まらない。
決めた瞬間に、固定になる。
彼女はそれを恐れている。
ではどうする?
「……名は、彼女が生む」
彼女が関係の中で生む音。
意味。
呼び方。
それを受け取るのが、対等だ。
「……私は、応答だけを渡す」
返事を押し付けない。
言葉を投げない。
ただ――“届いた”という事実だけを返す。
境界の奥で、薄い光が灯る。
それは扉を開ける光ではない。
彼女の問いを、受け取った印。
そして――遺跡の扉の奥で、微かな“呼吸”が生まれる。
⸻
丘の上で、エレノアは目を開けた。
遺跡が変わったわけではない。
扉も開いていない。
でも、分かる。
「……届いた」
胸の奥が、すっと軽くなる。
返事は聞こえない。
でも、“拒絶ではない”と分かる。
「……ありがとう」
もう一度、言う。
その瞬間、エレノアの中で何かが整った。
呼びたい理由。
選びたい理由。
そして――問いに対する応答の気配。
「……次は」
エレノアは扉に手を触れないまま、半歩下がる。
「次に、同じようなことが起きたら」
「私は、逃げません」
夜空の下で誓う。
「あなたの自由を守りながら」
「私の選択も守ります」
その言葉が終わった瞬間、ルミナの気配が少しだけ強く揺れた。
――進める。
エレノアは頷いた。
「……帰りましょう」
丘を下りる。
星は変わらず輝いている。
でも、昨日までと違う。
背中が、少しだけ温かい。
数日後、再び街外れがざわついた。
同じ若い召喚士――ではない。
別の場所。別の人。別の陣。
けれど、空気の痛さは同じだった。
「……また、同じ匂い」
エレノアは走らない。
急がない。
急ぐと、呼び方が荒くなる。
そう学んだ。
現場に到着すると、魔法陣の中心で小さな召喚存在が揺れていた。
形は獣に近い。
まだ幼いのか、輪郭が薄い。
召喚士は中年の男だった。
声は穏やかだが、言葉の端に“所有”が混じっている。
「出てきたのはいい子だ」
「お前なら役に立つ」
役に立つ。
それだけで、距離が固定される。
エレノアは一歩前に出て、しかし境界を越えない。
「……その子、名前を聞いていますか」
男は眉を上げた。
「名前?」
「必要か?」
必要か。
その一言で、場の温度が下がる。
エレノアは静かに言う。
「必要です」
「その子が、その子でいるために」
男が鼻で笑う。
「召喚は使うものだ」
「関係ごっこは、趣味でやれ」
周囲の冒険者がざわつく。
同調する者もいれば、目をそらす者もいる。
エレノアは、息を吸う。
“言葉の檻”が来る。
善意の刃が来る。
でも、ここで折れたら戻る。
「……私は召喚士です」
言葉を揃える。
柔らかく、でも逃げない。
「使うために呼ぶ召喚を、止めます」
男が目を細める。
「止める?」
「誰が? お前が?」
圧。
笑い。
周囲の視線。
エレノアの胸が苦しくなる。
――ここで、呼びたい。
助けてほしい。
場を整えたい。
壊したくない。
でも、名を呼ぶのは固定だ。
相手を巻き込む。
(……私は、問いかける)
丘で決めた。
次は、逃げない。
エレノアは、胸の内側に向けて、静かに問いを放つ。
(あなたは、私に呼ばれたいですか)
声には出さない。
でも、言葉は確かに形を持つ。
その瞬間、風がひとつ吹いた。
幼い召喚存在が、少しだけエレノアの方を向く。
――目が合った。
それだけで、エレノアは決める。
「……来てほしい、じゃない」
呟く。
「……一緒に、在ってほしい」
そして、ここで――名が自然に口をついた。
準備した名ではない。
用意した音でもない。
ただ、夜空で見上げた星のように、
自分の中で“灯っていた呼び方”。
「――ネファル」
その音が落ちた瞬間、空気が変わった。
命令ではない。
拘束でもない。
応答の入り口だけが開いた。
境界の向こうで、ネファル=ディアが“応える”。
姿はまだ完全ではない。
でも、気配が世界に触れる。
痛かった空気が、少しだけ整う。
荒かった魔力が、粒を揃える。
男が一瞬だけ言葉を失う。
「……何だ」
エレノアは男を見ない。
幼い召喚存在に向けて言う。
「帰っていい」
「選んでいい」
男が怒鳴る。
「勝手に――!」
その声が途中で止まる。
ネファル=ディアの気配は、怒りを向けない。
ただ、“選択肢”を確保する。
命令の線が、ふっと薄くなる。
代わりに、“帰路の線”が浮かぶ。
幼い召喚存在が一歩、後退する。
男が叫ぶ。
「戻るな! 戻るな!」
エレノアの声が、静かに重なる。
「戻っていい」
幼い存在は、ためらい、そして――消える。
暴走は起きない。
破壊もない。
ただ、
“使われる未来”が、断ち切られた。
男が地面を叩く。
「……俺の力が」
エレノアは言う。
「あなたの力は、奪っていません」
「あなたが“関係”を作らなかっただけです」
男は言い返せない。
周囲が息を吐く。
冒険者の一人がぽつりと漏らす。
「……戦わずに、止めた」
エレノアはその言葉を拾わない。
代わりに、胸の奥に残る名前を確かめる。
「……ネファル」
一度だけ、心の中で呼ぶ。
返事はない。
でも――気配がいる。
“呼ばれた”のではなく、“応えた”気配。
エレノアは小さく息を吐いた。
「……ありがとう」
夜。工房。
エレノアはランプを灯し、ノートを開いた。
手が震えている。
怖かったのだと、今さら気づく。
「……呼んじゃいましたね」
笑うような声。
でも、後悔はなかった。
呼びたかった理由を持って、問いかけて、応答を受け取った。
「……ネファル=ディア」
今度は、紙の上に名前を書く。
その瞬間、胸が少しだけ締まった。
固定になる。
戻れない。
でも――固定は檻じゃない。
関係の入口だ。
(あなたが嫌なら、来なくていい)
その条件を自分で反芻する。
(でも、もし来たいなら)
胸の奥が温かい。
(私は、選びたい)
窓の外、星が見える。
同じ星を、向こう側も見ているのか分からない。
それでも、
背中越しに確かに感じる。
会えない。
でも、支え合って立てる。
その夜、境界の向こうでネファル=ディアは静かに思う。
「……名は、奪われなかった」
彼女は名で縛らない。
名で所有しない。
ただ、入口として名を置いた。
「……だから、応えた」
それだけでよかった。
名を持つことは、失うことではない。
選べることが増えることだ。
ネファル=ディアは、沈黙のまま“そこに在る”。
呼ばれたら来る、ではない。
呼び合える距離に立つ。
それが、初めての契約だった。
紙に書かれた名のインクが乾く。
エレノアは目を閉じて、ゆっくり息を吐いた。
「……おやすみなさい、ネファル」
返事はない。
でも、
気配がほんの少しだけ揺れた。
――ここにいる。
それだけで、
世界は十分に広かった。
(つづく)




