第50話 星の名を呼ぶまで
工房の朝は、いつもより静かだった。
火を入れる前の空気は、冷たくて、澄んでいる。
木の机に触れると、指先がわずかにひやりとする。
エレノアはその感触を確かめるように、掌を一度だけ置いてから離した。
作る。
今日も、いつも通りに。
――そう思っていたはずなのに、火がつけられない。
「……」
道具は揃っている。材料も足りている。
手順だって頭の中にある。
でも、“最初の一歩”だけが出ない。
不思議だ、と思ったのはほんの数秒だった。
すぐに理由がわかる。
「……呼ぶ、って」
昨夜、ノートに書いた言葉が、まだ胸の奥で乾いていない。
呼びたい理由。
選びたい理由。
その言葉は正しい。
正しいから、重い。
エレノアは椅子を引き、座る。
窓の外には、人の往来が見える。街はすでに目覚めていた。
――自分だけが、遅れている。
そう思いかけて、首を振る。
「……遅れてるんじゃなくて」
ペンを手に取る。
ノートの余白に、短い言葉を書き足した。
呼ぶことは、距離を変えること。
その下に、少し迷ってから、もう一行。
距離が変わると、戻れない。
戻れないのが怖いわけじゃない。
むしろ、戻れないことは、時に救いになる。
それでも怖いのは――
「……間違えたくない」
相手を。
関係を。
名を。
“間違える”という言葉が、いつもより鋭く響いた。
その瞬間、背後の棚で小さな音がした。
瓶が、ひとつ、ほんの少しだけ揺れた。
風はない。扉も閉まっている。
エレノアは振り返らずに、息を吸った。
「……ルミナ」
呼ぶと、気配がすぐ近くに寄る。
近いのに、圧はない。
距離を詰めてくるのではなく、ただ“そこに在る”。
――大丈夫。
言葉ではなく、気配がそう言う。
エレノアは、小さく笑った。
「……あなたは、いつもそうですね」
答えはない。
でも、気配が揺れる。
肯定にも、否定にも取れる曖昧さ。
その曖昧さが、今はありがたい。
エレノアは立ち上がり、火を入れる。
今日は大きな仕事はしない。
必要な分だけ。
自分の手が戻ってくる分だけ。
鍋に水を入れ、温める。
材料を測る。
粉末を落とす。
混ぜる。
手順は戻ってくる。
でも、胸の奥にあるものは消えない。
「……」
工房の扉が叩かれた。
控えめなノック。
いつもの客の音ではない。
「エレノアさん」
リネアの声だった。
扉を開けると、彼女はいつもより少し真面目な顔をしていた。
普段は軽やかな眼差しが、今日は何かを計っているように見える。
「今、時間あります?」
「……少しなら」
リネアは工房の中に入らず、入口のところで止まった。
踏み込まない優しさ。
それをエレノアはよく知っている。
「街の外れで、ちょっと厄介なことが起きてる」
エレノアの指が止まる。
「……また、召喚ですか」
「うん。たぶん」
リネアは短く頷いた。
「若い召喚士が、無理をした」
「この前の件、覚えてる?」
覚えている。
忘れる方が難しい。
あの召喚は壊れかけた。
そして壊れなかった。
“誰か”が介在したとしか思えない、あの不自然さ。
「今回は……壊れた?」
リネアは少しだけ目を伏せた。
「完全には、まだ」
「でも、放っておくと危ない」
エレノアは鍋の火を落とし、布をかける。
自分の手が震えていないことを、確認する。
「……行きます」
リネアはほっと息をついた。
「無理はしないで」
「あなたが動くと、周りが勝手に期待する」
その言葉が、刺さる。
エレノアは頷いた。
「……今日は、選びます」
リネアはその言葉を聞いて、わずかに笑った。
嬉しそうというより、安心に近い笑み。
「うん。じゃあ、案内する」
二人は街の外れへ向かった。
歩きながら、エレノアは空を見る。
昼の空は青く、雲が薄い。
星は見えない。
でも――星のことを考えてしまう。
昨夜から、ずっと。
名。
呼び方。
距離。
「……ねえ、リネア」
「なに?」
「召喚士って」
「みんな……こんなに急ぐものですか?」
リネアは少し考えた。
「急ぐというか……焦る」
「成果を見せたい、認められたい、置いていかれたくない」
「そういうのが重なると、呼び方が荒くなる」
呼び方。
エレノアは頷く。
「呼び方で、関係が決まる」
「そうだね」
「だから私は、あなたのやり方が好きだよ」
好き。
その言葉は軽いのに、胸に残る。
「“やさしい”って、強いから」
エレノアは少しだけ笑った。
「……強い、ですか」
「強いよ」
「あなた、断れるから」
断れる。
それはまだ、自分の中で新しい。
街外れに近づくにつれ、空気が変わっていく。
痛い。雑で、荒い。
「……また」
エレノアは足を止めた。
周囲の草が、風もないのに揺れている。
空気の密度が違う。
「魔力の残り香」
リネアが眉を寄せる。
「ここだね」
前方に人だかり。
数人の冒険者が、囲むように立っている。
その中心に、崩れた魔法陣。
焦げ跡。
そして――存在が一つ。
人に近い形をしている。
けれど、“目が合わない”。
「……」
エレノアの喉が乾く。
あのときと違う。
壊れかけたのではなく、壊れ始めている。
若い召喚士が、膝をついていた。
顔色が悪く、唇が白い。
「……頼む」
「戻れ……戻ってくれ」
声は震えている。
命令ではない。
でも、お願いでもない。
“手遅れになりそうな声”だった。
エレノアは一歩、前へ。
そして止まる。
境界は越えない。
「……あなた」
若い召喚士が顔を上げる。
前に会ったことがある。
目が泳いだあと、少しだけ怯えたような表情になる。
「あんた……」
エレノアは、強い声を使わない。
「状況を見ます」
「見るって……何を」
「契約じゃない」
「拘束が、残っています」
エレノアは周囲を見回す。
冒険者たちが、ぎこちなく槍や盾を構えている。
戦う準備はある。
でも、戦いたくはない顔。
「……あの存在は、暴れていない」
「まだ、な」
冒険者の一人が短く答える。
「でも、目が……あれは危ない」
「言葉が届いてない目だ」
言葉が届いてない。
エレノアは息を吸う。
「……名前は」
若い召喚士が唇を噛む。
「……言わない」
「言えないんだ。聞けなかった」
エレノアは頷いた。
責めない。
「……聞けなかったんですね」
その“事実”だけを置く。
若い召喚士が震える。
「焦ってた」
「認められたかった」
「みんな、強いのを出してたから」
エレノアは目を閉じない。
逃げない。
「……じゃあ」
ゆっくり口を開く。
「今、選び直せますか?」
若い召喚士が顔を上げる。
「……何を」
「呼び方です」
エレノアは、少しだけ声を落とした。
「命令しない」
「縛らない」
「代わりに……お願いもしない」
「……は?」
エレノアは、そこにいる存在へ向き合う。
視線が合わないのは、拒絶ではない。
“戻り方を失っている”だけだ。
そう感じた。
「あなたは、帰りたいですか」
大きな声ではない。
でも、言葉を真っ直ぐにする。
相手を動かすためではなく、
相手に届くための言葉。
“存在”が、わずかに揺れた。
それだけで、周囲が息を呑む。
若い召喚士が叫びそうになるのを、リネアが手で制した。
エレノアは続ける。
「帰りたいなら、帰っていい」
「……ここは、あなたの場所じゃない」
“存在”はさらに揺れる。
だが、まだ動けない。
足元に、拘束の痕が残っている。
魔法陣の残骸が、歪んだ鎖みたいに絡みついている。
「……ほどけない」
エレノアは呟く。
ここで、力で切れば早い。
冒険者なら、斬れる。
魔導士なら、燃やせる。
でも――それは“契約の傷”を深くする。
「……」
エレノアは一歩だけ前に出た。
それでも、境界は越えない。
線の外側に膝をつき、指先で地面の焦げ跡をなぞる。
「……これ、最初から壊れてた」
誰も気づかなかった部分。
呼び出しの線が、最初から歪んでいる。
だから、“存在”は戻る道を失っている。
「……」
胸の奥が熱くなる。
呼ぶという行為は、道を作ること。
道を作らずに引きずり出したら、戻れない。
エレノアは唇を噛む。
「……ルミナ」
小さく呼ぶ。
気配が寄る。
ただそれだけ。
でも、背中が支えられる。
「……私が、やります」
リネアが目を見開く。
「エレノア、無理は――」
「切りません」
「燃やしません」
エレノアは続ける。
「道を……書き直します」
冒険者が眉をひそめる。
「そんなの出来るのか」
「……完璧じゃない」
「でも、“帰る方向”だけは作れます」
エレノアは指先で線を描き始める。
焦げた線ではない。
新しい線。
命令の線ではなく、帰路の線。
「……帰っていい、という線」
若い召喚士が震える声で言う。
「そんなので……戻るのか」
エレノアは答えない。
答えを言葉で押し付けたくなかった。
描く。
整える。
手を止めない。
ルミナの気配が、そっと手元に寄る。
直接は触れない。
でも、温度が変わる。
“存在”の足元の鎖が、わずかに緩む。
――戻りたい。
その意思が、初めて見えた。
エレノアは息を吸う。
そして、ここで――
胸の奥が、強く疼いた。
「……呼びたい」
理由が、はっきりした。
力が欲しいからじゃない。
助けてほしいからでもない。
この道を、
“二人で作りたい”と思った。
――でも。
エレノアは、唇を噛んだ。
今ここで名を呼べば、関係が固定される。
相手を引きずり込む。
しかも、まだ相手の意思を完全には聞いていない。
「……まだ」
呼べない。
呼びたいのに。
呼べない。
その矛盾が、喉を焼く。
次の瞬間。
空気が――沈んだ。
“存在”が、急に膝を折るように揺れる。
鎖が緩む代わりに、全身の輪郭が崩れかけた。
戻る力が足りない。
道は作れた。
でも、歩く力がない。
若い召喚士が叫ぶ。
「戻れ! 戻ってくれ!」
その言葉が、最悪だった。
鎖がまた締まる。
命令が、道を塞ぐ。
エレノアが顔を上げる。
「……言葉を、やめてください」
強い声。
若い召喚士の口が閉じる。
「……お願いです」
「今は、何も言わないで」
若い召喚士は涙目で頷く。
エレノアは、線を描き直す。
戻る道。
選べる道。
それでも、“存在”が揺れる。
もう一歩で壊れる。
そのとき――
境界の向こう側で、意味が動いた。
ネファル=ディアは観測していた。
彼女の呼びたいという欲。
呼べないという矛盾。
そして――壊れかけた存在。
「……」
彼は動いた。
名を持たぬまま。
呼ばれぬまま。
介入は最小限。
だが、今回は“逸らす”だけでは足りない。
戻る力を補う必要がある。
しかし力を与えれば、支配になる。
「……なら」
彼は“道”だけを渡す。
力ではない。
方向。
意思が歩けるための、薄い橋。
境界の向こうで、
見えない糸が一本だけ張られる。
それは、誰のものでもない。
命令でもない。
ただ、“帰れる”という事実の補助。
“存在”が、わずかに姿勢を正す。
息を吹き返すように、ゆっくりと。
鎖がさらに緩み、道が繋がる。
エレノアは気づく。
――誰かが、支えた。
「……」
喉が熱くなる。
呼びたい。
呼べない。
でも、支えられている。
エレノアは、胸の奥で言葉を探す。
「……ありがとう」
その言葉は、誰かに届くように放たれた。
名は呼ばない。
でも、関係の芽を守る言葉。
境界の向こうで、ネファル=ディアの意識が揺れた。
呼ばれていない。
それでも、届いた。
“存在”は一歩だけ後退し、線の上を辿る。
そして――薄く、消える。
完全に戻ったのかどうかは分からない。
でも、壊れなかった。
人だかりの空気が解ける。
冒険者たちが息を吐く。
若い召喚士は、その場に崩れ落ちた。
「……」
エレノアは膝をついたまま、地面を見つめる。
胸が痛い。
守れた。
でも――呼べなかった。
「……呼びたい理由があるのに」
言葉が喉で詰まる。
リネアがそっと近づき、肩に触れない距離でしゃがむ。
「エレノア」
「……はい」
「今のは、あなたが壊さなかった」
「それだけで、十分すごい」
エレノアは首を振る。
「……まだ」
「私、呼びたいのに……呼べないんです」
リネアは静かに頷いた。
「うん」
「それが、あなたの強さだよ」
強さ。
その言葉は、今は少し痛い。
エレノアは立ち上がる。
「……帰ります」
「今日は……もう、これ以上は」
リネアは頷いた。
「送るよ」
二人が歩き出すと、背後で若い召喚士が小さく声を上げた。
「……すみません」
エレノアは立ち止まらない。
でも、振り返って言う。
「……謝らなくていいです」
「次、急がないでください」
それだけ。
若い召喚士は小さく頷く。
⸻
工房へ戻る道。
夕方の光が長く伸びる。
エレノアは、空を見上げた。
「……今日も、星は見えませんね」
昼と夜の間。
境界みたいな時間。
「……でも」
胸の奥で、何かが決まっていく。
呼びたい理由は、もうある。
足りないのは――言葉ではなく、覚悟だ。
「……次は」
エレノアは小さく呟く。
「次は、名を呼ぶ前に」
「……あなたに、問いかけます」
命令じゃない問い。
縛る問いじゃない問い。
「あなたは、私に呼ばれたいですか」
その問いが言えたとき、
名は自然に出る。
エレノアはそう確信した。




