第49話 呼びたい理由
朝の工房は、
昨日よりも少しだけ明るかった。
窓から差し込む光が、
作業台の端を照らしている。
エレノアは、
いつもより早く目を覚ました。
眠れなかったわけではない。
ただ――
目を閉じている間も、
思考が止まらなかった。
「……」
水を一口飲み、
椅子に腰を下ろす。
ノートを開く。
白いページ。
そこに、
昨日の夜に書いた一行が残っている。
あのとき、
私は名前を呼ばなかった。
エレノアは、
しばらくその文字を見つめた。
「……呼ばなかった理由」
昨日は、
言葉に出来なかった。
今日は――
少しだけ、
向き合えそうな気がする。
ペンを持つ。
ゆっくりと、
書き足す。
呼ばなかったのは、
怖かったからじゃない。
違う。
呼ばなかったのは、
相手を信じていなかったからでもない。
それも違う。
ペンが止まる。
「……」
深く息を吸う。
「……呼んだら、
終わってしまう気がしたんです」
声に出すと、
胸の奥が少し痛んだ。
呼ぶ、という行為。
それは――
始まりであると同時に、
固定でもある。
「……名前を呼ぶって」
エレノアは、
独り言のように続ける。
「“あなたは、
こういう存在です”
って……
決めてしまうこと、
ですよね」
相手を。
関係を。
距離を。
「……私は、
まだ」
言葉を探す。
「……あなたを、
決めたくなかった」
それは、
逃げではなかった。
責任から逃れたわけでもない。
「……でも」
ペン先が、
わずかに震える。
「……決めないまま、
守られてしまった」
その事実が、
胸に残っている。
「……それが」
ゆっくりと、
言葉が形になる。
「……少しだけ、
悔しかったんです」
悔しさ。
それは、
後悔と違う。
「……私は、
あなたを
必要としていたのに」
呼ばなかった。
呼べなかった。
でも――
必要だった。
「……次は」
エレノアは、
ペンを置く。
ノートを閉じる。
「……次は、
呼びたい理由を、
ちゃんと持ちたい」
それは、
力のためではない。
助けてほしいからでもない。
「……あなたを、
“使う”ためじゃなく」
胸の奥に、
確かな感情がある。
「……あなたを、
“選びたい”から」
それが、
今の答えだった。
⸻
境界の向こうで。
ネファル=ディアは、
その思考の流れを
“観て”いた。
言葉。
迷い。
そして――
悔しさ。
「……なるほど」
彼は、
初めて納得した。
彼女は、
呼ばなかったのではない。
呼べなかった理由を、
自分で引き受けようとしている。
それは、
責任だ。
「名を呼ぶということは、
関係を固定すること」
彼女の理解は、
正しい。
多くの召喚士は、
そこを考えない。
だから、
関係は壊れる。
「……彼女は」
ネファル=ディアは、
静かに考える。
もし、
彼女が名を呼ぶなら。
それは、
力を求めた結果ではない。
「……選ぶ、
という行為の結果だ」
その瞬間、
彼の内側に
わずかな変化が生まれた。
名そのものではない。
だが――
名が置かれる“場所”。
関係の座標。
距離。
温度。
「……名を持つなら」
初めて、
条件が言語化される。
「彼女が、
“決めるため”ではなく」
「……“共に在るため”に
呼ぶのなら」
そのときは。
「……受け取ろう」
それは、
誓いではない。
ただの、
選択肢。
だが、
彼にとっては
大きな一歩だった。
⸻
エレノアは、
工房の外に出る。
朝の空気は、
澄んでいる。
「……」
空を見上げる。
今日は、
まだ星は見えない。
それでも――
境界の向こうを、
意識してしまう。
「……呼びたい理由」
小さく呟く。
それは、
まだ完全じゃない。
でも――
嘘ではない。
「……次に会うときは」
言葉が、
自然と口をつく。
「……ちゃんと、
考えてきます」
誰に向けた言葉でもない。
でも、
境界の向こうで
“観測者”は
それを聞いた。
呼ばれていない。
名もない。
それでも――
二人の間には、
確かな“関係の芽”が
生まれていた。
名は、
まだ。
だが――
呼ばれる準備は、
両方に整い始めていた。
(つづく)




