第48話 名を呼ばなかった理由
夜の工房は、
昼よりも音が多い。
火のはぜる音。
木が軋む音。
遠くを通る風の気配。
エレノアは、
作業台に向かったまま、
手を止めていた。
今日は作るつもりだった。
小さな保存具。
誰にも頼まれていない、
自分のためのもの。
それなのに、
指が動かない。
「……」
思考が、
別のところに引き寄せられている。
――あのとき。
壊れかけた召喚。
若い召喚士。
そして、
境界の“向こう側”。
「……守られて、
いましたよね」
誰に向けた言葉でもない。
でも、
確信だけはあった。
あの場で、
自分が何も呼ばなかったにもかかわらず、
“何か”が介在していた。
壊れなかった理由。
暴走しなかった理由。
「……私は」
エレノアは、
ペンを取り、
ノートに一行だけ書く。
あのとき、
私は名前を呼ばなかった。
そして、
その下に、
続けて書こうとして――
止まる。
理由が、
言葉にならない。
怖かったから?
違う。
準備が出来ていなかったから?
それも違う。
「……呼ぶ資格が、
ないと思ったんです」
ようやく、
本音が出る。
呼べば、
関係が変わる。
呼べば、
相手を巻き込む。
「……それが、
正しいと思えなかった」
でも。
「……それで、
よかったんでしょうか」
胸の奥が、
小さく痛む。
後悔ではない。
でも――
ためらいの残滓。
「……呼ばなかったから、
守れなかったことも、
あるんでしょうか」
ルミナの気配が、
静かに揺れる。
――分からない。
それが答えだった。
エレノアは、
ノートを閉じる。
今日は、
結論を出さない。
ただ、
この感情を
見ないふりはしない。
⸻
境界の向こう側では、
別の選択が行われていた。
ネファル=ディアは、
“観て”いた。
壊れかけた召喚。
若い召喚士。
そして、
名を呼ばなかった彼女。
「……」
あの場で、
彼は動いた。
名を持たぬまま。
呼ばれぬまま。
干渉は、
最小限。
契約を壊さず、
力も示さず、
ただ――
“逸れさせた”。
選択肢を、
元に戻した。
それだけ。
「……越えているな」
彼自身が、
境界を。
観測者であるなら、
手を出すべきではなかった。
だが――
彼は出た。
理由は、
一つしかない。
「彼女が、
壊れるのを、
見たくなかった」
それは、
観測者の思考ではない。
「……名もない私が、
守るなど」
矛盾だ。
名を持たない存在は、
関係を持たない。
関係を持たないなら、
守る理由もない。
それでも――
守ってしまった。
「……呼ばれなかった」
その事実が、
胸の奥で
妙に重い。
怒りではない。
悲しみでもない。
未完の関係。
「名を持たぬまま、
関わることの限界か」
もし、
彼女が名を呼んでいたら。
彼は――
応えただろうか。
沈黙。
答えは、
分かっている。
「……応えていただろう」
それが、
彼自身を
少し驚かせた。
名は、
縛りではない。
だが、
名がなければ
踏み込めない領域もある。
「……それでも」
彼は、
選び直す。
今は、まだ持たない。
彼女が呼ばなかった理由を、
尊重する。
それが、
彼なりの対等さだった。
「……名を欲する前に」
彼女が、
自分の“呼びたい理由”を
見つけるまで。
境界は、
静かに閉じている。
だが、
二人の距離は――
確かに、
縮まっていた。
⸻
夜が更ける。
エレノアは、
工房の灯りを落とし、
外に出た。
空には、
星が出ている。
「……」
見上げながら、
ふと呟く。
「……呼ばなかったのに、
守られた」
その事実が、
胸に残る。
「……次は」
言葉が、
途中で止まる。
次があると、
もう知っている。
「……次は、
ちゃんと、
考えます」
誰に向けた言葉でもない。
でも――
届いている気がした。
境界の向こうで、
ネファル=ディアは
その言葉を“観た”。
呼ばれていない。
だが、
拒絶されてもいない。
「……それでいい」
名は、
まだ生まれない。
けれど――
名が生まれるための理由は、
今、確かに育っていた。
(つづく)




