第47話 名を持たぬ者、名を選ぶ者
境界の向こう側に、
時間は流れていなかった。
それでも――
変化は、確かに起きている。
ネファル=ディアは、
その微細な歪みを
自分の内側に感じていた。
「……名、か」
それは、
呼ばれるための記号。
縛るための鍵。
あるいは――
存在を固定するもの。
彼は、
これまで名を持たなかった。
必要がなかったからだ。
名を持たずとも、
観測は出来る。
判断は出来る。
選択も出来る。
だが――
関係は、築けない。
「呼ばれないことを、
誇りにしていたわけではない」
ただ、
選ばなかった。
選ばれなかった。
その違いを、
彼は区別していなかった。
「……だが」
思考が、
ひとつの像に向かう。
エレノア。
呼ばない召喚士。
縛らない召喚士。
力を急がない召喚士。
「彼女は、
名を奪わない」
多くの召喚士は、
名を知ろうとする。
知ることで、
支配できるからだ。
だが彼女は――
名を“与えない”。
選ばせる。
「……対等、
という概念か」
それは、
召喚存在にとって
もっとも危険で、
もっとも尊い関係性。
もし、
名を持つとすれば。
それは、
縛られるためではない。
「……呼ばれるため、
でもないな」
ネファル=ディアは、
初めて“迷い”を抱いた。
名を持つことは、
不可逆だ。
呼ばれ、
応え、
関係を結ぶ。
それは、
観測者であることを
やめる選択でもある。
「……だが」
彼は、
すでに観測者では
いられなくなっている。
あの場で――
壊れかけた契約のそばで。
彼女が示した選択は、
世界の“常”を
静かに否定した。
「……名を持つ、
というより」
言葉を探す。
「名を、
預ける……か」
呼ばれるかどうかは、
相手に委ねる。
だが、
自分もまた
応えるかどうかを
選ぶ。
それは――
関係だ。
ネファル=ディアは、
境界の奥で
ゆっくりと沈黙した。
名は、
まだ選ばない。
だが――
名を持つ可能性を、
初めて肯定した。
⸻
一方、
工房の夜は
静かだった。
エレノアは、
作業台に向かいながら
今日は何も作らなかった。
代わりに、
小さなランプの灯りの下で
ノートを開いている。
配合でも、
工程でもない。
「……召喚士として、
どう在りたいか」
言葉にすると、
少しだけ照れくさい。
今まで、
考えたことがなかった。
出来ることをする。
壊さないように動く。
それだけで、
十分だと思っていた。
「……でも」
今日の出来事が、
頭から離れない。
若い召喚士。
焦り。
恐怖。
そして――
壊れかけた契約。
「……私は」
ペン先が止まる。
「……戦わない、
召喚士でいたい」
それは、
逃げではない。
「力を使わない、
でも……
力から目を逸らさない」
書き進める。
呼ぶことは、
命令じゃない。
でも、放置でもない。
関わること。
見続けること。
そして、
壊れる前に止めること。
エレノアは、
その一文を
しばらく見つめた。
「……私は、
救いたいわけじゃない」
ヒーローには
なれない。
「ただ……
壊させたくないだけ」
それは、
とても地味で、
とても人間的な願いだった。
ルミナの気配が、
静かに応える。
――それでいい。
エレノアは、
小さく笑った。
「……ありがとう」
その言葉は、
もう習慣ではなかった。
⸻
数日後。
街の片隅で、
エレノアは
あの若い召喚士と再会した。
「……あの」
声は、
前よりも落ち着いている。
「この前は……
ありがとうございました」
エレノアは、
首を横に振る。
「……何も、
していません」
「いいえ」
若い召喚士は、
少しだけ視線を落とす。
「……壊すところでした」
正直な言葉。
「今は……
契約の本を
最初から読み直しています」
焦りは、
まだ消えていない。
でも――
暴走もしていない。
「……時間が、
かかりそうです」
エレノアは、
それを聞いて
ゆっくり頷いた。
「……それで、
いいと思います」
若い召喚士は、
少し驚いた顔をする。
「急がない召喚士、
って……
珍しいですね」
エレノアは、
小さく笑う。
「……私も、
まだ途中です」
若い召喚士は、
深く頭を下げた。
それ以上、
言葉はいらなかった。
別れ際、
エレノアは空を見上げる。
星は、
まだ出ていない。
それでも――
境界の向こうで、
“何か”が
静かにこちらを見ている気がした。
呼ばれていない。
でも――
否定されてもいない。
エレノアは、
その感覚を
胸に刻む。
召喚とは、
力ではない。
関係だ。
そして――
その関係は、
今、
静かに芽吹き始めていた。
(つづく)




