第43話 選ばれなかった時間
工房の朝は、静かだった。
扉を開けた瞬間、
冷えた空気がゆっくりと流れ込んでくる。
エレノアは、
一度だけ深く息を吸った。
昨日、
ここで「出来ません」と言った。
それだけのことなのに、
工房の中が、
少しだけ広く感じられる。
「……」
作業台に向かう。
鍋は片付けられ、
道具は整えられている。
今日は、
納期もない。
依頼も入れていない。
“選ばれなかった時間”。
エレノアは、
その言葉を心の中で転がした。
「……何を、
しようとしてたんでしょう」
いつもなら、
答えはすぐ出る。
作る。
調整する。
仕上げる。
でも今日は、
違った。
「……作らなくていい時間、
って……」
少しだけ、
居心地が悪い。
役に立たない自分。
誰にも呼ばれていない自分。
それを、
どう扱えばいいのか。
エレノアは、
棚の前に立ち、
指先で木目をなぞる。
「……嫌、
ではないですね」
怖さは、
まだ残っている。
でも、
嫌悪感はない。
それが、
不思議だった。
工房の奥で、
小さな気配が揺れた。
「……ルミナ」
呼ぶと、
すぐに応えが返る。
――ここにいる。
今日は、
それだけで十分だった。
エレノアは、
工房の扉を開け、
外に出た。
街は、
いつも通り。
人の流れも、
音も、
変わらない。
「……変わらないですね」
昨日、自分が断ったことが、
世界を揺るがすことはなかった。
誰も、
立ち止まっていない。
誰も、
責めていない。
その事実に、
胸の奥が少しだけ
軽くなる。
「……」
歩きながら、
ふと気づく。
今日は、
“行き先”を決めていない。
いつもなら、
目的がある。
素材の確認。
納品の調整。
街の反応。
でも今日は、
足が自然と
違う方向を向いた。
遺跡のある、
外れの丘。
「……行くつもり、
なかったんですけど」
誰に言うでもなく。
草の匂いが、
風に混じる。
足元の感触が、
少し柔らかい。
作業でも、
調査でもない。
ただ、
歩いている。
「……」
ふと、
胸の奥がざわついた。
嫌な予感、
というほどではない。
でも――
“呼ばれている”
ような感覚。
「……呼んでない、
ですよね」
ルミナの気配が、
わずかに揺れる。
――呼んでいない。
それでも、
何かがそこにある。
遺跡は、
変わらず静かだった。
封じられた扉も、
動いていない。
「……今日は、
開けません」
自分に言い聞かせる。
断ったばかりだ。
これ以上、
踏み込む必要はない。
でも――
エレノアは、
立ち止まったまま、
しばらく動けなかった。
「……」
胸の奥で、
別の感情が動く。
好奇心。
使命感。
それとも――
“選ばなかった時間”を
埋めようとする癖。
「……それは、
違いますね」
はっきり言う。
今日は、
選ばない。
調べない。
触れない。
ただ、
ここに立つ。
それだけ。
風が、
草を揺らす。
星は、
まだ見えない。
昼の空の下で、
エレノアは
ただ呼吸をした。
「……戻りましょう」
背を向ける。
その瞬間、
遺跡の奥で
“何か”が、
静かに沈んだ。
――選ばれなかった。
それは、
拒絶ではない。
“今ではない”
という選択。
エレノアは、
それに気づかないまま、
丘を下りていった。
工房に戻る道すがら、
胸の奥に、
不思議な感覚が残る。
失った気はしない。
でも、
確かに――
何かを先送りにした
感覚。
「……」
それでいい。
今日は、
それでいい。
エレノアは、
工房の扉を開けた。
選ばなかった時間は、
空白ではない。
それは、
次に選ぶための余白だった。
(つづく)




