幕間 朝霧しおりの朝
朝の光は、容赦がなかった。
カーテンの隙間から差し込む白い光が、
眠りの名残を一気に剥がしていく。
「……」
しおりは、
目を開けたまま、しばらく動かなかった。
夢は見なかった。
でも、
何もなかったわけでもない。
胸の奥に、
小さな違和感が残っている。
昨日の夜。
言葉にならなかった問い。
――何を、残したいんだろう。
「……朝ですね」
独り言は、
天井に吸われる。
体を起こす。
頭は重くない。
眠気も、いつもより少ない。
それが、
逆に落ち着かない。
キッチンに立ち、
水を一杯飲む。
冷たい感触が、
喉を通っていく。
「……ちゃんと、起きてます」
鏡に映る自分は、
いつもと変わらない。
疲れているようで、
動けないほどではない。
“普通”。
しおりは、
その言葉を心の中で転がした。
――普通って、何だろう。
着替えを済ませ、
バッグを手に取る。
中身を確認する癖は、
もう体に染みついている。
財布。
鍵。
スマートフォン。
それから、
メモ帳。
「……」
ふと、
手が止まる。
このメモ帳には、
やるべきことが書いてある。
やるべきことの記録。
引き継ぐためのメモ。
次の予定の整理。
どれも、
間違っていない。
どれも、
誰かのために必要なもの。
「……」
しおりは、
ページを一枚めくる。
そこには、
昨日の自分の字。
丁寧で、
少し小さい文字。
“出来ます”
“対応します”
“問題ありません”
「……いつから、
これが癖になったんでしょう」
答えは、
だいたい分かっている。
出来たから。
出来てしまったから。
頼られることが、
嫌じゃなかったから。
それだけで、
前に出てきた。
「……」
玄関で靴を履く。
立ち上がる瞬間、
一瞬だけ、
胸が締めつけられた。
――今日は、出来ません。
昨夜、
浮かんだ言葉。
言えなかった言葉。
しおりは、
小さく息を吸う。
「……今日は、
言わないですけど」
誰に向けたわけでもない。
でも、
昨日までとは違う。
“言えない”と
“言わない”は、
似ているけれど、
少し違う。
ドアを開ける。
朝の空気が、
肌に触れる。
冷たくて、
はっきりしている。
「……」
歩き出す。
足取りは、
いつも通り。
でも、
頭の奥で、
何かが引っかかっている。
――もし、
今日も同じように
頼まれたら。
――もし、
また“出来ます”と
言いそうになったら。
しおりは、
歩きながら、
ほんの一瞬だけ考えた。
そして――
結論は出さなかった。
出さない、
という選択。
「……今は、
それでいいですね」
自分に言い聞かせる。
朝は、
決断をする時間じゃない。
ただ、
問いを持ったまま
生きてみる。
それだけで、
今日は違う。
信号が変わる。
人の流れに乗って、
しおりは前に進む。
胸の奥に残る感覚は、
まだ名前がない。
でも――
昨日より、
少しだけ重くて、
少しだけ大切だった。
それはきっと、
エレノアが選んだものと、
同じ根を持つ感情。
しおりは、
それに気づかないふりをして、
それでも手放さずに、
今日を歩き始めた。
(つづく)




