幕間 朝霧しおりの夜(ふたたび)
夜の部屋は、静かだった。
エアコンの低い音と、
冷蔵庫の稼働音。
それだけが、
生活の証みたいに続いている。
しおりは、
ソファの端に腰を下ろし、
スマートフォンを伏せた。
画面は、
もう何分も点いていない。
「……」
今日は、
何か特別なことがあったわけじゃない。
仕事も、
大きなミスはなかった。
誰かに怒られたわけでもない。
責められたわけでもない。
それなのに――
胸の奥が、
じんわりと疲れている。
「……変ですね」
呟いた声は、
部屋に吸い込まれる。
いつものことだ。
そう言い聞かせる。
“今日は何もなかった”
“無事に終わった”
それだけで、
十分なはずなのに。
しおりは、
テーブルの上の書類を見た。
やるべきことの記録。
引き継ぐためのメモ。
次の予定の整理。
どれも、
間違っていない。
誰かのために動いて、
ちゃんと形になっている。
「……ちゃんと、
やれてますよね」
答えは、
返ってこない。
そのとき、
胸の奥で
ふっと何かが浮かぶ。
――もし、
今日は出来ませんって
言えたら。
しおりは、
一瞬だけ眉をひそめた。
「……無理ですね」
小さく笑う。
言えない。
言えるはずがない。
出来る。
やれる。
頼まれている。
それだけで、
体は前に出てしまう。
「……」
ふと、
違和感が走る。
“前に出てしまう”
誰の言葉だろう。
自分のはずなのに、
どこか他人事みたいだった。
「……あ」
その瞬間、
胸の奥が、
きゅっと締まる。
――エレノア。
名前が、
理由もなく浮かんだ。
最近、
夢の中でよく聞く名前。
「……断ってた、
んですよね」
しおりは、
はっきりとは覚えていない。
でも、
確かにそんな感覚が残っている。
誰かが、
“それは出来ません”
と言った気がした。
「……」
しおりは、
ソファに深く腰を沈める。
羨ましい、
とは思わなかった。
でも――
「……そういう、
選び方も、
あるんですね」
誰かのために動かない、
という意味じゃない。
自分を削らない、
という意味。
「……私」
喉の奥が、
少し痛む。
「……何を、
残したいんでしょう」
言葉にした瞬間、
涙が出そうになって、
慌てて目を閉じた。
理由は分かっている。
答えを、
もう知っているから。
残したいものは、
“誰かに必要とされる自分”
だけじゃない。
でも――
それ以外を、
どう守ればいいか、
分からない。
「……」
しおりは、
ゆっくりと息を吐いた。
泣かない。
今は、
そこまでじゃない。
ただ、
胸に残るこの感覚を、
無視しない。
それだけで、
今日は十分だ。
スマートフォンを手に取り、
画面を点ける。
通知はない。
連絡もない。
「……静かですね」
その静けさが、
少しだけ救いだった。
しおりは、
目を閉じる。
――また、
向こうに行くかもしれない。
――でも今日は、
ここでいい。
ベッドに横になり、
天井を見る。
「……おやすみなさい」
誰に言うでもなく。
その夜、
夢は見なかった。
でも――
胸の奥に、
確かに何かが残っていた。
それはまだ、
言葉にならない。
けれど、
エレノアが選んだものと、
同じ重さを持った何かだった。
(つづく)




