第42話 失われなかったもの
工房の扉を閉めたあと、
エレノアは、しばらくその場に立っていた。
外の音が、
一枚の板を隔てて遠くなる。
街は、
変わらず動いている。
誰かが呼ぶ声。
荷車の音。
笑い声。
それらは、
エレノアが断ったからといって、
止まるものではなかった。
「……本当に、
止まりませんでしたね」
昨日、自分が言った言葉を思い出す。
“私がいなくても、世界は止まりません”
それは、
諦めではなかった。
でも、
言ったあとで、
少しだけ怖くなった。
――本当に、
自分は必要なかったのではないか。
工房の中に戻り、
椅子に腰を下ろす。
作業台は、
今日は静かだ。
「……」
やることは、ある。
掃除も、整理も、記録も。
それでも、
エレノアはすぐには動かなかった。
“役に立つこと”を、
選ばない時間。
それは、
思っていた以上に、
落ち着かなかった。
「……慣れてないですね」
苦笑が漏れる。
そのとき、
扉の向こうで、
人の気配がした。
反射的に、
肩がこわばる。
――また、
何か言われるだろうか。
――後悔していないか、
試されるだろうか。
ノック。
一度。
控えめ。
「……はい」
扉を開けると、
そこにいたのはリネアだった。
今日は、
荷を持っていない。
調査用の装備もない。
「突然ごめんなさい」
声は、
いつもと同じ。
「……どうぞ」
工房に招き入れる。
リネアは、
作業台を見るなり、
すぐに気づいた。
「今日は、
作っていないんですね」
責める調子は、
一切なかった。
「……はい」
「そうですか」
それだけ。
間が、
心地いい。
「……何か、
ありましたか?」
エレノアは、
少し考えてから答える。
「……断りました」
それは、
もう隠す必要のない言葉だった。
「街の方からの、
お願いを」
リネアは、
一瞬だけ目を細める。
驚きでも、
否定でもない。
「……それは、
勇気が要りましたね」
その言葉に、
エレノアの胸が、
少しだけ緩む。
「……怖かったです」
正直に言う。
「今も、
少しだけ」
「ええ」
リネアは、
静かに頷く。
「断ったあとに来る怖さは、
断る前より、
長く続きます」
経験者の言葉だった。
「……でも」
リネアは、
工房の椅子に腰を下ろす。
「失ったもの、
ありましたか?」
エレノアは、
即答できなかった。
失ったもの。
信用?
評価?
役割?
「……分かりません」
正直な答え。
リネアは、
それを否定しない。
「なら、
今すぐには、
失っていないということです」
「……」
「失うときは、
はっきり分かりますから」
静かな断言。
エレノアは、
その言葉を、
胸の奥に置いた。
「……代わりに」
リネアは、
ふっと視線を上げる。
「何か、
残りましたか?」
残ったもの。
エレノアは、
自分の手を見る。
震えは、
もう止まっている。
「……立っていました」
小さな声。
「断ったあと、
足が震えて……
でも、
立っていました」
リネアは、
それを聞いて、
ほんの少しだけ笑った。
「それは、
大きなものが残っていますね」
「……?」
「“自分”です」
エレノアは、
息を呑む。
そんなふうに、
考えたことはなかった。
「役に立つ自分でも」
「期待に応える自分でもなく」
リネアは、
言葉を選ぶ。
「“選べる自分”が、
残っています」
エレノアの胸に、
何かが落ちた。
重たいのに、
あたたかい。
「……私」
声が、
少しだけ震える。
「……それを、
失うのが、
一番怖かったのかもしれません」
リネアは、
何も言わなかった。
それで、
十分だった。
しばらくして、
リネアは立ち上がる。
「今日は、
これだけ伝えに来ました」
「……それだけ、
ですか?」
「はい」
リネアは、
扉の前で振り返る。
「もしまた、
何かを選ぶときが来たら」
一拍、
間を置く。
「“出来るかどうか”より、
“残したいもの”で、
考えてください」
それだけ言って、
去っていった。
扉が閉まる。
工房に、
静けさが戻る。
エレノアは、
椅子に座り、
目を閉じた。
失ったものは、
まだ分からない。
でも――
「……残っていますね」
自分が、
ここに。
ルミナの気配が、
確かに寄り添う。
――一緒に。
エレノアは、
立ち上がり、
棚から一つ、
小さな道具を取った。
今日は、
大きな仕事はしない。
でも――
自分のために、
少しだけ整える。
それは、
逃げではなかった。
生き方を、
続けるための選択だった。
(つづく)




