第40話 善意という名前の刃
工房を閉めた翌朝、
エレノアは少し遅く目を覚ました。
眠れなかったわけではない。
むしろ、久しぶりに
深く、静かに眠れた。
「……」
胸の重さは、
昨日より軽い。
それだけで、
少し安心してしまう自分がいた。
外に出ると、
街はいつも通りだった。
挨拶。
足音。
商人の声。
「……戻ってきましたね」
その“普通”が、
今はありがたい。
工房の扉を開ける前に、
後ろから声がかかった。
「エレノアさん」
振り返ると、
街の役人が立っていた。
昨日と同じ人。
穏やかな顔。
敵意はない。
「昨日は、
お休みされていましたね」
責める口調ではない。
確認するだけの声。
「……はい」
「体調不良ですか?」
心配しているように聞こえる。
本当に、そうかもしれない。
「……少し」
「それは良かった」
役人は頷く。
「無理をして倒れられるのが、
一番困りますから」
困る。
「あなたは、
街にとって大切な人です」
大切。
「あなたがいなければ、
困る人が出ます」
「あなたがやらなければ、
代わりはいません」
代わりがいない。
その言葉が、
胸の奥に、
冷たく落ちた。
「……」
「だからこそ、
あなたには“自覚”を
持っていただきたい」
自覚。
「昨日のように、
急に閉められると」
「周囲が不安になります」
不安。
「もちろん、
あなたの自由です」
「強制するつもりはありません」
でも。
「でも、
期待されているという事実は、
変わりません」
エレノアは、
何も言えなかった。
昨日なら、
ここで頷いていた。
でも今日は、
違う。
胸の奥で、
小さく何かが軋んだ。
「……それは」
言葉が、
喉で止まる。
「大丈夫ですよ」
役人は笑う。
「あなたは、
ちゃんと応えてきましたから」
ちゃんと。
「これからも、
出来ますよね?」
その問いは、
確認ではない。
期待でもない。
拘束だった。
「……」
エレノアの視線が、
足元に落ちる。
断れば、
誰かが困る。
応えれば、
自分が削れる。
どちらも、
正しい。
どちらも、
間違っていない。
「……私」
声が、
わずかに震えた。
役人は、
それに気づかない。
「無理はさせません」
「あなたのペースで」
昨日と同じ言葉。
でも、
意味は真逆だった。
「……」
そのとき、
工房の奥で
小さな音がした。
瓶が、
ひとつ転がった。
誰も触れていないのに。
役人が、
ちらりと見る。
「……?」
エレノアは、
その音に救われた気がした。
「……すみません」
一度、
距離を取る。
「少し、
考えさせてください」
役人は、
一瞬だけ眉を動かした。
ほんの一瞬。
「……ええ、もちろん」
すぐに笑顔に戻る。
「考えられる方だからこそ、
お願いしているんです」
その言葉が、
最後の刃だった。
役人が去ったあと、
エレノアは
その場に立ち尽くした。
足が、
少し震えている。
「……言葉って」
喉が、
ひどく乾く。
「……こんなに、
痛かったんですね」
昨日より、
はっきりと。
ルミナの気配が、
強く寄り添う。
――一緒に。
エレノアは、
ゆっくり息を吐いた。
「……でも」
昨日の自分を、
思い出す。
「……私は、
選べます」
震えたままでも、
立っていられる。
傷ついても、
感じている。
それだけで、
昨日とは違う。
エレノアは、
工房の扉を開けた。
今日は――
まだ、終わっていない。
(つづく)




