第36話 笑った理由
昼前の工房は、
朝とも夜とも違う音をしていた。
外では人の声が行き交い、
中では火が落ち着いて燃えている。
エレノアは、
作業台の前で包みを一つ結んだ。
中身は、
昨日仕上げた保存食と、
小瓶に詰めた調整薬。
「……これで、
よし」
誰に見せるでもない確認。
でも、その声は
少しだけ軽かった。
工房の扉が開く。
「失礼します」
聞き覚えのある声。
エレノアが顔を上げると、
そこにはリネアが立っていた。
今日は軽装ではなく、
調査用の荷を背負っている。
「……早いですね」
「昼前に寄れると思って」
そう言って、
リネアは工房を見回した。
「落ち着く場所ですね。
人の手が、
ちゃんと残っている」
その言葉に、
エレノアは少しだけ驚いた。
「……分かりますか?」
「ええ。
調査をしていると、
“急いで作られた場所”と
“育てられた場所”は、
すぐ分かります」
エレノアは、
包みを一つ差し出した。
「……今日の分です」
リネアは、
両手で受け取る。
「ありがとうございます。
量は、
これくらいがちょうどいいですね」
「……足りませんか?」
「いえ。
“足りる”という感覚を、
持ったまま使える量です」
その言い方が、
妙に心地よかった。
エレノアは、
思わず小さく笑った。
「……そう言われると、
安心します」
その笑顔は、
無意識だった。
あとから、
自分で気づいて
少し戸惑うくらい。
リネアは、
その様子を見て、
何も言わなかった。
ただ、
少しだけ視線を和らげる。
「今日は、
これを確認しに来ました」
そう言って、
一枚の紙を広げる。
簡単な地図。
召喚研究跡の周辺。
「遺跡の外縁部だけ、
調べてみました。
戦闘の痕跡は、
ほとんどありません」
「……でしょうね」
エレノアは、
自然にそう答えていた。
「“荒らされていない遺跡”は、
久しぶりに見ました」
リネアは、
少しだけ声を落とす。
「正直に言うと……
調査が、
怖くありませんでした」
その言葉に、
エレノアの指が止まる。
「……それは」
「危険がない、
という意味ではありません」
リネアは、
はっきりと言った。
「“無理をしなくていい”
という感覚です」
沈黙。
その言葉は、
エレノアの胸に、
まっすぐ刺さった。
――無理をしなくていい。
しおりが、
何度も欲しかった言葉。
「……それは、
よかったです」
エレノアは、
そう答えるしかなかった。
でも、
胸の奥で
何かが静かに揺れる。
「今日の調査は、
ここまでにします」
リネアは、
地図を畳んだ。
「続きをやるなら、
また相談します。
無理は、
しません」
「……はい」
二人で、
工房の外に出る。
昼の光が、
少し眩しい。
「エレノア」
リネアが、
立ち止まって言う。
「あなたは……
自分が何をしているか、
分かっていますか?」
エレノアは、
一瞬考えた。
「……いいえ」
正直な答え。
「でも、
間違ってはいないと、
思っています」
リネアは、
小さく頷いた。
「それで、
十分です」
そう言って、
背を向ける。
エレノアは、
その背中を見送りながら、
胸の奥が
少しだけ温かくなるのを感じた。
工房に戻り、
椅子に腰を下ろす。
「……笑いましたね、
私」
独り言。
驚きよりも、
照れに近い感情。
それから、
ふと不安がよぎる。
――こんな日常が、
もし失われたら。
エレノアは、
その考えを
振り払わなかった。
逃げない。
「……大丈夫」
誰に言うでもなく、
そう呟く。
「守れるものは、
守ります」
ルミナの気配が、
静かに応えた。
――一緒に。
昼の工房は、
また穏やかな音に戻る。
だが、
世界は確かに
一歩進んでいた。
(つづく)




