第30話 土に触れるという選択
夜明け前の畑は、
まだ世界の輪郭がはっきりしない時間帯にある。
空は薄く青みを帯び、
夜と朝の境目で、
風だけが先に目を覚ましていた。
エレノアは、
畝の端に立ち、
しばらく動かなかった。
眠ってはいない。
意識ははっきりしている。
けれど、
身体の奥にある“芯”が、
今朝は不思議と静かだった。
「……」
息を吸う。
胸が、軽い。
理由は考えない。
考える必要がないほど、
自然だった。
エレノアは、
手袋をはめる。
杖ではない。
剣でもない。
畑仕事用の、
少し古びた革の手袋。
それを選んだ時点で、
今日の自分が
「戦う側」ではないことを、
体が理解していた。
しゃがみ込み、
土に触れる。
指先で、
ゆっくりと。
「……昨日より、
水が残ってますね」
独り言。
昨夜の湿り気。
風向き。
雲の流れ。
全部が、
ちゃんと地面に反映されている。
エレノアは、
畑を“見る”。
作物を見るのではない。
土地を見る。
土の色。
粒の大きさ。
踏みしめたときの沈み方。
「……ここは、
少し間引いた方が、
良さそうです」
そう判断してから、
初めて作物に手を伸ばした。
迷いはない。
これは、
召喚士としての判断とは、
まったく別のもの。
でも――
どこか、似ている。
無理に引き抜かない。
力でねじらない。
必要な分だけ、
必要な方向へ。
「……生きてる、
ですね」
抜いた苗を、
丁寧に横へ置く。
すぐには捨てない。
まだ、使い道があるかもしれない。
その選択が、
エレノアらしかった。
畑の端で、
ルミナの気配が、
いつもより近くにあった。
姿はない。
言葉もない。
でも、
“見ている”。
それだけが、
分かる。
「……これ、
ルミナはどう思いますか?」
答えはない。
けれど、
風が一度、
畝の上をなぞった。
「……そうですね」
エレノアは、
なぜか納得した。
召喚士としての会話ではない。
魔力のやり取りでもない。
ただ、
同じ場所にいる者同士の、
共有。
作業を進めるうちに、
朝の光が強くなる。
土の色が変わり、
影が短くなる。
その変化に合わせて、
エレノアの動きも、
自然に変わっていった。
急がない。
でも、止まらない。
一つ終えたら、
次へ。
一列終えたら、
少し引いて、全体を見る。
「……よし」
小さく頷く。
完成ではない。
でも、
“今日の分”は、
ちゃんと終わった。
その瞬間、
胸の奥で、
微かな感覚が動いた。
――呼ばれていないのに、
こちらを向いているもの。
エレノアは、
顔を上げた。
畑の外。
小道の先。
誰かが来る気配。
「……?」
警戒ではない。
興味に近い。
しばらくして、
一人の人物が姿を現した。
見覚えがある。
以前、
作物の件で
少しだけ言葉を交わした、
行商人だった。
「おはようございます」
エレノアが先に声をかける。
行商人は、
一瞬驚いた顔をしてから、
笑った。
「いや、早いな。
まだ朝だぞ」
「……畑は、
朝が一番、
分かりやすいので」
「分かりやすい?」
「……嘘をつかないです」
その返答に、
行商人は少しだけ考え込み、
それから、
ゆっくり頷いた。
「なるほどな」
彼は、
畑を見回す。
「この辺り、
最近、
作物の質が安定してきてる。
お前さん、
何か変えたか?」
エレノアは、
少し首を傾げた。
「……特には」
「本当か?」
「……土を、
ちゃんと見るようにしました」
行商人は、
一瞬黙った。
それから、
小さく笑う。
「それを“変えた”って言うんだよ」
そう言われて、
エレノアは驚いたように瞬きをした。
「……そう、
なんでしょうか」
「そうだ」
行商人は、
袋から小さな包みを取り出す。
「これ、
余りものだ。
南の方で採れた、
少し変わった種だ」
エレノアは、
すぐには受け取らなかった。
「……条件は?」
「条件?」
「……何か、
求められるなら」
行商人は、
一瞬きょとんとしてから、
笑った。
「いや、
育ててみてくれりゃいい。
結果が良けりゃ、
次にまた話そう」
エレノアは、
少し考えてから、
包みを受け取った。
「……分かりました」
そのやり取りを、
ルミナの気配が、
静かに見ていた。
魔力は動かない。
契約もない。
でも、
“縁”が、
一つ増えた。
行商人が去った後、
エレノアは包みを開く。
見たことのない種。
でも、
触った瞬間に、
分かる。
「……この土、
好きそうです」
畑を見渡す。
どこに植えるか。
どう育てるか。
考える前に、
体が動き出す。
それは、
召喚士としての直感と、
同じ質だった。
――戦わなくても、
世界と関われる。
――呼ばなくても、
応えてくるものがある。
エレノアは、
静かに種を土に埋めた。
「……また、
会いましょう」
誰に向けた言葉かは、
分からない。
でも、
畑は確かに、
それを受け取った。
そして、
遠い場所で。
一人の女性が、
いつもより少し軽い足取りで、
昼を迎えている。
二人は、
別々の場所で、
同じ“前進”をしていた。
(つづく)




