第29話 静かな呼応
夜は、もう深かった。
畑の上には雲がかかり、
月は輪郭だけを残して隠れている。
虫の声。
遠くの水音。
それらが、きちんと“そこにある”夜だった。
エレノアは、畝の間に立ったまま、
しばらく動かなかった。
身体は目覚めている。
意識もはっきりしている。
けれど、
どこか一部だけが、
まだ眠りの底に残っている感覚があった。
「……」
胸の奥。
そこに、重さがある。
痛みではない。
恐怖でもない。
ただ、
誰かが一日分の感情を置いていったような――
そんな重さ。
「……ルミナ」
名を呼ぶ。
すぐそばに、気配が応えた。
――いる。
それだけで、
立っていられる。
エレノアは、土にしゃがみ込み、
指先で地面に触れた。
昼の土とは、温度が違う。
冷たくて、
でも拒まない。
「……今日も、
外は、
大変だったみたいです」
誰に向けた言葉でもない。
でも、
それは“共有”だった。
畑は、何も答えない。
それでいい。
答えがない場所だからこそ、
こうして戻ってこられる。
エレノアは、ゆっくりと息を吐く。
吸うより、
吐く方が長い。
それが、
今の正解だと感じた。
――疲れている。
それは、自分の疲れじゃない。
判断を重ねた疲れでも、
魔力を使った反動でもない。
“受け取った”疲れ。
エレノアは、理由を探さなかった。
理由を探すのは、
もっと元気なときでいい。
今はただ、
この重さが、
どこから来たのかを
分かっているだけで十分だった。
「……大丈夫です」
小さく言う。
言葉は、
自分に向けて。
それから、
もう一度だけ。
「……ちゃんと、
戻りますから」
その瞬間、
胸の奥が、
ほんの少しだけ温かくなった。
返事はない。
でも、
それでいい。
エレノアは立ち上がり、
畑を見渡す。
何も変わっていない。
作物は静かに育ち、
風は必要以上に吹かない。
世界は、
エレノアがいなくても回る。
その事実が、
今は少しだけ、
救いだった。
「……今日は、
動かなくていいですね」
畑を離れ、
小屋の前に腰を下ろす。
ここで夜を明かすこともできる。
でも、今日はそうしない。
身体は起きているが、
心はまだ“橋の上”だ。
完全にこちらに来きっていない。
エレノアは、
その状態を無理に正さなかった。
無理に切り替える必要はない。
この世界と、
もう一つの世界。
その境目に立つ時間も、
自分の一部だから。
「……」
目を閉じる。
意識が、
少しだけ遠のく。
すると――
畑の感触が、
ゆっくりと薄れていく。
土の匂い。
夜の冷気。
虫の声。
それらが、
水の中に沈むように、
遠くなる。
代わりに、
別の気配が近づく。
硬い床。
静かな部屋。
人の生活の匂い。
――帰る。
そう思った瞬間、
エレノアの意識は、
そっと手放された。
***
朝霧しおりは、
ソファに座ったまま、
しばらく動けずにいた。
時計を見る。
夜遅い時間。
電気はつけっぱなし。
カーテンも閉じたまま。
「……」
息を吸う。
今度は、
少しだけ楽だ。
重さは、ある。
でも、
押しつぶされるほどじゃない。
「……戻った、のかな」
独り言。
しおりは、
その言葉に確信を持てなかった。
戻った、というより――
“預けていたものが返ってきた”。
そんな感覚。
胸の奥を探る。
疲れは残っている。
でも、
底が見える。
無限に沈み続ける感じが、
今日はない。
「……不思議」
ソファに深く座り直し、
背もたれに体を預ける。
目を閉じる。
畑の映像は、
もう見えない。
でも、
土を踏む感触だけが、
かすかに残っている。
「……頑張ったんだね」
誰に向けた言葉かは、
分からない。
でも、
その言葉は自然に出てきた。
しおりは、
そのまましばらく、
何もしなかった。
スマートフォンも見ない。
考え事もしない。
ただ、
“何もしない”ことを
許した。
それは、
以前の自分にはできなかったこと。
何かしていないと、
不安になっていた。
役に立っていないと、
価値がない気がしていた。
でも今は。
「……今日は、
ここまででいい」
その言葉を、
自分に言えた。
布団に入り、
電気を消す。
暗闇は、
怖くない。
今日一日で感じたもの。
人の声。
気遣い。
小さな摩擦。
全部が、
まだ胸にある。
でも、
それらを抱えたままでも、
眠れる気がした。
「……おやすみなさい」
小さく呟く。
その瞬間、
胸の奥で、
何かが静かに整った。
無理に前に進まなくてもいい。
無理に強くならなくてもいい。
今日は、
ちゃんと“生きた”。
それだけで、
十分だ。
しおりの意識が、
ゆっくりと沈んでいく。
今度は、
逃げるためじゃない。
休むためだ。
そして、
遠い場所で。
畑の夜が、
完全に静まり返る。
二つの世界は、
また同じ速度で、
呼吸を始めていた。
(つづく)




