第28話 朝霧しおりという人
午前の空気は、まだ柔らかかった。
出勤してすぐの時間帯。
建物の中には、人の声があるのに、どこか余白が残っている。
朝霧しおりは、
その余白の中に立つのが、少しだけ得意だった。
「おはようございます」
小さく、でもはっきりと。
返ってくる声は様々だ。
元気な人もいれば、眠そうな人もいる。
目を合わせてくれる人も、そうでない人もいる。
それでいい。
今のしおりは、
全員に同じ距離で近づこうとはしていなかった。
以前の自分なら、違ったと思う。
――ちゃんとしなきゃ。
――気を配らなきゃ。
――全部、見てなきゃ。
そんなふうに、
いつも少し前に出て、少し無理をしていた。
でも今は、
一歩引いた場所から、
人の輪を見ている。
それは逃げではない。
自分を守るための距離だと、
ようやく分かってきた。
午前中の作業は、比較的穏やかだった。
手順を説明し、
一緒に確認し、
困っているところがあれば声をかける。
「ここ、合ってますか?」
そう聞かれて、
しおりは頷く。
「大丈夫です。
ゆっくりでいいですよ」
その言葉が、
相手だけじゃなく、
自分にも向けられていることに気づく。
――ゆっくりでいい。
それは、
昔の自分が一番欲しかった言葉だった。
昼休憩。
しおりは、少し人から離れた席に座った。
完全に一人になるわけでもなく、
かといって会話の中心にもならない場所。
今の自分に、ちょうどいい。
お茶を一口飲む。
温かい。
それだけで、
体の内側が少し緩む。
「……」
ふと、
胸の奥に小さな痛みが走った。
ほんの一瞬。
でも、確かに。
――あ。
この感覚は、知っている。
無理をしていないはずなのに、
疲れが溜まっているとき。
頑張っていないつもりでも、
ちゃんと気を張っている証拠。
しおりは、
その感覚から目を逸らさなかった。
以前なら、
「まだ大丈夫」と押し込んでいた。
でも今は、
ただ認める。
――疲れてるな。
それだけ。
午後に入って、
少しだけ空気が変わった。
些細な行き違い。
言葉の選び方。
意図していない誤解。
誰も悪くない。
でも、
人が関わる場所では、
そういうことが起きる。
「……すみません」
自分が謝る必要はない場面で、
しおりは反射的に頭を下げていた。
「あ、朝霧さんは悪くないですよ」
そう言われて、
胸が少しだけ締め付けられる。
――分かってる。
――分かってるけど。
“悪くない”と言われるたびに、
自分が“場を保つ役”になっている感覚が、
静かに積み重なっていく。
それは嫌じゃない。
でも、重い。
気づかないふりは、
もうできなかった。
夕方が近づく。
体は動いている。
言葉も出る。
判断もできる。
それなのに、
心のどこかが、
少しだけ遅れている。
「……」
深呼吸。
吸える。
ちゃんと。
でも、
朝ほど楽ではない。
帰り支度をしながら、
しおりは思う。
――今日は、よくやった。
――無理もしなかった。
それでも、
胸の奥に残るこの感じは、
消えない。
家に帰る道。
空は、夕焼けに染まりかけていた。
「……綺麗」
思わず口にする。
その瞬間、
理由のない寂しさが、
胸に広がった。
一人で立っていること。
前に進んでいること。
ちゃんと生きていること。
全部、間違っていない。
それなのに。
「……疲れたな」
声に出すと、
少しだけ楽になる。
家に着き、
靴を脱ぐ。
電気をつける。
静かな部屋。
「……」
ソファに腰を下ろした瞬間、
張りつめていたものが、
少しだけ緩んだ。
その代わりに、
別の感覚が顔を出す。
――もう、今日は、
ここまででいい。
そう思ったはずなのに、
頭の奥がざわつく。
人の声。
気遣い。
判断。
一日分の“外”が、
ゆっくり内側に流れ込んでくる。
「……」
しおりは、目を閉じた。
深く、息を吸おうとする。
……少し、重い。
朝ほどではない。
「……そっか」
無理をしていないつもりでも、
限界は、静かに来る。
それは、
弱さじゃない。
体と心が、
ちゃんと連動している証拠だ。
――今日は、ここまで。
そう決めた瞬間。
胸の奥が、
すうっと冷える。
同時に、
遠くで、
土を踏む感覚がした。
「……」
畑。
夜の風。
静かな気配。
名前を呼ばなくても、
分かる。
――向こう側が、起きている。
「……お願い」
小さく、そう呟いた。
誰に向けた言葉かは、
分からない。
でも。
このバトンは、
もう何度も、
確かに渡されてきた。
しおりの意識が、
静かに、沈んでいく。
抵抗はない。
それは逃げじゃない。
休息だ。
――あとは、任せる。
その瞬間。
夜の畑で、
一人の召喚士が、
静かに目を開けた。
(つづく)




