第27話 朝霧しおりの朝
朝の光は、思っていたより静かだった。
目覚ましが鳴る前に、
朝霧しおりは目を覚ましていた。
天井を見上げる。
見慣れた白。
少しだけ古い、でも落ち着く部屋。
「……あ」
息を吸う。
いつもなら、
胸の奥に何かが引っかかる。
深く吸おうとすると、途中で止まる感覚。
けれど今朝は――
最後まで、空気が入った。
「……吸えた」
小さく呟いてから、
しおりは自分で可笑しくなって、少し笑った。
大したことじゃない。
本当に、大したことじゃない。
でも。
それができない朝も、確かにあった。
ベッドの中で、ゆっくりと体を起こす。
眩暈はない。
頭も重くない。
昨日の夜、
眠る直前まで考えていたはずのことが、
今は遠くにある。
――仕事のこと。
――人との距離。
――ちゃんと出来ているのか、という不安。
全部が消えたわけじゃない。
ただ、
“一番手前”に来ていない。
それだけで、
こんなにも朝は穏やかになるのかと、
しおりは少し驚いた。
カーテンを開ける。
薄い雲。
でも、雨ではない。
「……今日は、晴れそう」
誰に聞かせるでもなく言う。
その声が、
ちゃんと自分の耳に届いていることに、
また気づく。
以前は、
声を出すと、少しだけ現実から遅れる感じがした。
今は、
ぴったりだ。
キッチンに立ち、
湯を沸かす。
ポットの音を聞きながら、
しおりはふと、
昨夜見ていた夢の名残を探した。
――畑。
――夜。
――風。
はっきりした映像は思い出せない。
けれど、
“守られていた”という感覚だけが残っている。
「……不思議」
自分は何もしていない。
どこにも行っていない。
それなのに、
まるで誰かが代わりに、
大切なことをやってくれたみたいな――
そんな朝。
カップにお湯を注ぐ。
湯気が、ゆっくりと立ち上る。
「……私、
ずっと一人で頑張らなくちゃって、
思ってたな」
誰に聞かせるでもない独り言。
倒れる前も。
倒れた後も。
リハビリのときも。
仕事に戻ったときも。
助けてもらっているのに、
どこかでずっと、
“一人で立たなきゃ”と思っていた。
でも。
今朝は、
それが少しだけ違う。
「……一人じゃなくても、
いいのかな」
答えは出ない。
でも、
その問いを口にできたこと自体が、
しおりにとっては大きな一歩だった。
時計を見る。
いつもなら、
この時間帯に、胸がざわつく。
遅れたらどうしよう。
迷惑をかけたらどうしよう。
ちゃんと出来なかったら――。
でも今日は。
「……行ける」
根拠はない。
自信も、まだ弱い。
それでも、
行ける気がする。
しおりは身支度を整え、
玄関で靴を履く。
ドアノブに手をかけた瞬間、
なぜか胸の奥が、少しだけ温かくなった。
「……ありがとう」
誰に向けた言葉かは、分からない。
でも、
この言葉は確かに必要だった。
外に出る。
朝の空気が、頬に触れる。
深呼吸。
今度も、
ちゃんと吸えた。
「……行ってきます」
そう言って、
しおりは歩き出した。
その足取りは、
まだ慎重で、
少し遅い。
でも、確かに前に進んでいる。
そして、
遠いどこかで。
同じ朝を迎えた誰かが、
畑の土を踏みしめながら、
静かに息をしている。
それぞれの場所で、
それぞれの幸せへ。
二人の朝は、
確かにつながっていた。
(つづく)




