第26話 余韻の残り火 ――名を呼ぶということ
遺跡の空気は、戻ったようで戻っていなかった。
石の匂い。
湿った土。
かすかに残る魔力の揺らぎ。
誰もがそれを感じているのに、言葉にできない。
そんな沈黙が、入口付近に落ちていた。
ゴブリンの死体が横たわっている。
それは確かに“現実”だ。
剣で切った痕。火の魔法の焦げ。
さっきまでの戦いが嘘じゃない証拠。
なのに。
本当の恐怖は、あの数体ではなかった。
ガルド・レインハルトが、剣を下ろしたまま、遺跡の奥を睨んでいた。
前衛らしく姿勢は崩していない。
だが、指先だけがわずかに強張っている。
「……消えた、のか」
誰に言うでもなく、吐き出すように言った。
魔法使いのリーヴェ・アルシアは、その横で、何もない空間を見つめている。
手はすでに詠唱の形からほどけているのに、視線だけが戻らない。
「消えた、というより……」
彼女は一度言葉を切り、慎重に続けた。
「“ここに居られなくなった”に近いわね」
「何だそれ」
ガルドが眉をひそめる。
「退けたのか? 追い払ったのか? どっちだ」
問いかけは荒い。
でも、怒っているわけじゃない。
理解できないものを前にしたときの、あの顔だった。
回復役のノエルが、小さく肩をすくめた。
いつもなら、こういう場面で気の利いたことを言えないタイプだ。
けれど今日は、勇気を振り絞るように口を開いた。
「……助かりました。確かに。
でも……何が起きたのか、私、分からなくて」
「分からないなら黙ってろ」
と、言いそうな空気が一瞬流れる。
だがガルドは言わなかった。
それどころか、ほんの少しだけ表情を緩める。
「……分からないのは、全員だ」
それが、彼なりの優しさだった。
エレノアは少し離れた場所で、そのやり取りを聞いていた。
体は疲れていない。
呼吸も乱れていない。
ただ、胸の奥にだけ、静かな熱が残っている。
――守った。
それだけの確信。
でも同時に、恐ろしいほどの実感の薄さもあった。
戦った、という感覚がない。
何かを倒した手応えもない。
なのに――状況は、確かに変わっている。
「……ルミナ」
名を呼ぶと、そばに気配が寄った。
返事はない。
だけど、“肯定”だけが伝わる。
それで十分だった。
召喚士の青年――セイル・ノクスが、ひどく落ち着かない様子で自分の召喚獣を見つめていた。
獣は、今は正気に戻っている。
けれどセイルの顔色は、まだ戻っていない。
「……俺の、あいつ……」
言葉が途切れる。
自分の召喚獣を“あいつ”と呼ぶあたりに、彼の距離感が見えた。
相棒に近づこうとしているのに、まだ踏み込めない――そんな曖昧さ。
「……俺、命令したんだ。
いつも通りに。
いつも通りに……動くはずだった」
「動かなかった」
エレノアが淡く補うと、セイルは苦しそうに頷いた。
「……一瞬、視線が変わった。
俺を見てない目だった。
俺の召喚獣なのに、俺じゃない“誰か”を見てた」
ガルドが、低い声で吐き捨てるように言った。
「気味が悪いな。
召喚獣ってのは、そういうもんなのか?」
セイルは反射的に首を振った。
「違う! ……違う、はずだ。
少なくとも、俺のやつは……そんなふうじゃなかった」
リーヴェが、冷静に言葉を挟む。
「“誰かの命令”じゃなくて、
“誰かの干渉”に近いわ」
「干渉?」
「意識に触れてくるタイプ。
いわゆる……悪魔的なもの」
その瞬間、ノエルが息をのむ。
彼女は回復役として、痛みや恐怖に触れる仕事をしている。
だからこそ、こういう言葉が現実味を帯びる。
「……私、さっき。
頭の中で、変な声がした気がしました」
「……!」
セイルが顔を上げた。
「お前もか」
ノエルは小さく頷く。
「“戻れないよ”って……笑ってるみたいな。
でも怖くて……怖いのに、どこか、心が軽くなるみたいな……」
「甘い誘いね」
リーヴェが淡々とまとめる。
「恐怖と一緒に、救いの感触も混ぜてくる。
だから抗いにくい」
ガルドは苦々しく舌打ちした。
「厄介だな。
剣で斬れない相手ってのは、好きじゃない」
その言葉に、エレノアは少しだけ視線を落とした。
好きじゃない。
そう言えるのは、強い人だ。
自分は――
「……斬れない相手は、
斬らなくていいんです」
声は小さかったのに、全員がこちらを見た。
エレノアは、無意識に一歩だけ前へ出ていた。
「……触れているだけなら、
触れられない距離に戻せばいい」
ガルドが眉を寄せる。
「それを、どうやって?」
エレノアは答える前に、セイルを見た。
「……あなたは、召喚獣をどう呼びますか?」
セイルは戸惑ったまま、言った。
「どう、って……名前を呼ぶ。
それが普通……だろ」
「命令は?」
「……命令もする」
その言葉に、エレノアは頷いた。
「……その二つの違いを、
今まで意識したことはありますか」
セイルの表情が、固まった。
意識したことがない――そう言っているようだった。
リーヴェが、興味深そうに目を細める。
「呼ぶのは“関係”。
命令するのは“手段”。
そういう話?」
エレノアは、少しだけ驚いた。
リーヴェは聡い。
言葉の奥を拾うのが早い。
「……はい。
私は、呼ぶ方を大事にしたい」
ガルドは納得していない顔のままだった。
「綺麗事に聞こえるな」
「……そうかもしれません」
エレノアは否定しなかった。
「でも、命令が強いほど、
“割り込む隙”ができることもあると思います」
「隙?」
「……命令は、“ここにこう動け”って
決めつけるから。
そこに別の意志が触れたとき、
召喚獣が揺れます」
セイルの顔が青ざめる。
「俺が、悪かったって言いたいのか」
「……悪い、じゃないです」
エレノアは首を振った。
「普通です。
この世界の召喚士は、そう教わる」
言い切ったところで、
遺跡の奥から、かすかな音がした。
……カン、と。
金属が石に触れるような、乾いた響き。
全員の背筋が伸びる。
ガルドが、即座に前へ出る。
「まだいるのか?」
セイルが息をのむ。
ノエルが身を縮める。
リーヴェが、手のひらを静かに上げた。
「待って。
音の種類が違う。
……これは、遺跡そのものの反応」
「反応?」
リーヴェは床の紋様を見下ろす。
半ば埋もれた線が、ほんの一瞬――月明かりを吸ったように淡く光った。
エレノアはその光を見た瞬間、胸の奥が少し痛んだ。
“覚えられている”。
そう感じた。
自分は、この場所に何かを残してしまった。
「……行かない方がいい」
思わず口にすると、ガルドが振り返る。
「奥に何がある?」
「……まだ、早い」
その言葉は、説明になっていない。
けれど、エレノアは確信していた。
今、踏み込めば、
ネファル=ディアが残した問いに、答えることになる。
――次に来るとき、お前は何を呼ぶ?
自分はまだ、それを選べない。
「……退くのか?」
ガルドが唸る。
剣士としては、未知を放置するのが気持ち悪い。
それは分かる。
でもエレノアは、ゆっくり頷いた。
「……今日は、戻りましょう。
ここで起きたことを、
忘れないために」
リーヴェが、ふっと笑った。
「忘れないために、戻る。
……いい言い方ね」
ノエルが小さく手を上げる。
「あの……エレノアさん」
「はい」
「さっき、助けられました。
すごく、怖かったのに……
気づいたら、息ができてた」
ノエルは言葉を探しながら続ける。
「私、魔法のこと、全然分からない。
でも……あれは、怖いのを消したんじゃなくて、
怖さに飲まれないようにしてくれた気がします」
エレノアは、一瞬だけ目を伏せた。
それは、分かる。
恐怖は消えない。
消えるべきものでもない。
ただ――
飲まれないだけ。
「……ありがとうございます」
エレノアは小さく答えた。
礼を言われたのに、こちらが礼を言ってしまった。
それでもノエルは、嬉しそうに笑った。
セイルが、ようやくエレノアをまっすぐ見た。
「……お前、何者なんだ」
ガルドも言葉を続ける。
「少なくとも、普通の召喚士じゃない」
リーヴェは、結論を急がない目をしている。
「答えが出るまで、
私は記録しておくわ。
あなたのやり方も、この遺跡も」
その言い方が、妙に現実的で、エレノアは少し救われた。
「……私は、エレノアです」
それだけ答えた。
名前だけ。
それが今、できる最大限だった。
帰路につく前、エレノアはもう一度だけ遺跡を振り返る。
暗い入口の奥。
光はもうない。
音もない。
でも、確かに。
“何か”が、こちらを見ている気がした。
「ルミナ」
名を呼ぶと、気配が寄る。
――いる。
「……帰りましょう」
エレノアは前を向く。
足元の土は、確かだった。
そして。
この夜が終わる頃、
遠い場所で、誰かが少しだけ呼吸を取り戻す――
そんな予感がした。
(つづく)




