幕間 朝霧しおり
部屋は、少し冷えすぎていた。
エアコンの風が一定の間隔で鳴り、
モニターの光だけが、暗い室内を照らしている。
朝霧しおりは、椅子に深く腰を掛けたまま、
画面を見つめていた。
ログイン画面。
見慣れた音。
指はマウスに触れているのに、動かない。
「……まだ、いいか」
小さく呟いて、手を止める。
昔は違った。
電源を入れた瞬間から、
頭の中は次の行動でいっぱいだった。
早く動いて、
早く結果を出して、
誰よりも前に立つ。
画面の向こうには仲間がいて、
自分は、いつも指示を出す側だった。
作戦を決めて、
声を張って、
失敗すれば責任を背負う。
「……あの頃は、元気だったな」
強かった。
手応えもあった。
でも、
余裕はなかった。
勝っても、
どこか落ち着かなかった。
しおりは、ゆっくり息を吐く。
「……今は、無理だな」
画面の中のキャラクターは、
いつでも動ける状態で待っている。
でも、
自分のほうが追いついていない。
仕事のことが、頭をよぎる。
人の顔。
言葉。
「ありがとう」と言われたあとの、
あの静かな重さ。
助けたい。
役に立ちたい。
でも、
全部を抱え込めば、
また息が詰まる。
「……疲れてるんだ」
自分に言い聞かせるように、そう呟く。
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
考えすぎて、
呼吸が浅くなって、
現実が、少し遠くなる。
――この感じ。
しおりは、目を閉じる。
椅子の背にもたれ、
肩の力を抜く。
「……戻って」
誰に向けた言葉でもない。
でも、
行き先は分かっている。
土の匂いが、ふっと浮かぶ。
水の音。
風の感触。
「……エレノア」
自分の名前じゃない。
それでも、
確かに“自分”だった。
まぶたの裏で、
光の質が変わる。
――大丈夫。
言葉じゃない。
声でもない。
そこにいる、という確かな感覚。
「……ルミナ」
現実の部屋で、
その名前が小さく漏れた。
エアコンの音も、
モニターの光も、
消えてはいない。
でも、
胸の奥が、少しだけ軽くなる。
「……逃げてるわけじゃ、ないよね」
誰にともなく、問いかける。
答えは返らない。
でも、
否定される感じもしなかった。
しおりは、目を開ける。
画面は、まだログイン前のままだ。
「……今日は、やめておこう」
電源を落とす。
椅子から立ち上がると、
足の感覚が、ちゃんとある。
ここも現実。
確かに。
それでも――
もう一つの場所も、確かに在る。
ベッドに腰を下ろし、
天井を見上げる。
「……明日も、ちゃんと起きよう」
小さな声。
その奥で、
土の感触が、まだ残っていた。
(つづく)




