第二十三話 呼んだ、その先で
その日は、朝から落ち着かなかった。
空は明るい。
風も穏やか。
でも、
エレノアの胸の奥だけが、静かにざわついていた。
「……今日、
人、多いですね」
リーナが、畑を見渡して言う。
「……はい」
あちこちで、人が動いている。
水路、土、杭の周り。
それぞれ別の作業なのに、
距離が、いつもより近い。
「……嫌な予感、
するんだけど」
ミラが、ぽつりと言った。
「……ですね」
その直後だった。
「――っ!」
短い叫び声。
畑の端、
杭から少し離れた場所で、
土が崩れた。
大きくはない。
でも、下は水路だ。
「……人が!」
リーナが走り出しかける。
「……待って!」
エレノアが、即座に止めた。
声が、はっきり出ていた。
「……そこ、
動かないで!」
崩れた縁のそばで、
若い男性が立ち尽くしている。
足元の土が、じわじわ削られている。
「……今、
どうすれば……」
声が震えていた。
エレノアは、一歩前に出る。
――迷ってる時間は、ない。
「……大丈夫です」
「え?」
「……今、
守ります」
胸の奥が、強く鳴った。
――来て。
言葉じゃない。
音でもない。
信頼だけの呼びかけ。
空気が、すっと重くなる。
水の流れが、荒れた。
「……っ」
リーナが息を呑む。
ミラが歯を食いしばる。
「エレノア……!」
エレノアは、もう逸らさなかった。
「……お願い」
小さな声。
でも、迷いはない。
その瞬間――
水の流れが、折れた。
止まらない。
ただ、避ける。
崩れかけた場所を避けて、
流れが道を変える。
「……今です!」
エレノアが叫ぶ。
「……後ろに、
一歩!」
男性が、言われた通りに下がる。
土は、崩れきらずに踏みとどまった。
静寂。
誰も、すぐには言葉を出せなかった。
「……助かっ……た……?」
「……はい」
エレノアは、深く息を吐いた。
足が、少し震えている。
ミラが、ゆっくり近づく。
「……今の」
「……はい」
「呼んだよね」
エレノアは、否定しなかった。
「……呼びました」
リーナが、静かに聞く。
「……名前は?」
エレノアは、目を閉じた。
胸の奥で、
ずっと一緒にあった気配。
最初から、
そこにあった音。
「……ルミナ」
声が、静かに落ちる。
風が、畑を抜けた。
水面が、やさしく揺れる。
影が、
初めて“輪郭”を持つ。
「……ルミナ」
エレノアは、もう一度呼んだ。
「……ありがとう」
空気が、
確かに応えた。
守られた場所。
守られた人。
リーナが、涙をこらえた声で言う。
「……今の、
ちゃんとした名前、
ですよね」
エレノアは、頷いた。
「……はい」
ミラは、ふっと笑った。
「可愛いじゃん」
「……はい」
「相棒?」
少しだけ、間。
「……相棒です」
ミラは満足そうに頷く。
「じゃあ決まりだね」
エレノアは、胸に手を当てた。
――戻れない。
でも。
「……大丈夫です」
「なんで?」
リーナが聞く。
エレノアは、ルミナの気配を感じながら答えた。
「……一緒、
なので」
杭のそば。
水路の向こう。
畑の端。
同じ気配が、
すべてを、静かにつないでいた。
名は、落ちた。
それは命令じゃない。
契約でもない。
信頼で呼ばれた、相棒の名前だった。
(つづく)




