第二十二話 それを、どう呼ぶか
水路の騒ぎが落ち着いたあとも、
三人はしばらく、その場を離れなかった。
誰かが悪いわけじゃない。
でも、
何かが起きたあとの空気だった。
リーナが、先に口を開く。
「……さっきの」
「……はい」
「正直、
何が起きたのか、
よく分かってません」
ミラが、腕を組む。
「うん。
私も」
二人の視線が、
自然とエレノアに集まる。
エレノアは、少しだけ間を置いた。
「……水が、
暴れすぎてました」
「それは見た」
ミラが即答する。
「そのあと」
「……止まりました」
「完全には止まってないよね」
「……はい」
エレノアは頷く。
「……通り道を、
作っただけです」
リーナが、小さく息を吐く。
「……それ、
普通じゃないですよね」
エレノアは、否定しなかった。
「……普通、
じゃないです」
ミラが、苦笑する。
「だよね。
じゃあさ」
少しだけ、声を落とす。
「今の、
どう呼べばいいの?」
その言葉に、
エレノアの指が、きゅっと握られた。
「……呼べません」
即答だった。
「……まだ」
リーナが、首を傾げる。
「でも……
呼ばないと、
困りませんか」
「……困ります」
「ですよね」
リーナは、畑の方を見る。
「さっきも……
『あれ』とか
『それ』とか、
いっぱい使いました」
ミラが、くすっと笑う。
「分かる。
会話が遠回りになる」
エレノアは、静かに息を吸う。
「……名前を付けると」
「うん」
「……固定、
されます」
リーナが、少し真剣な顔になる。
「……戻れなく、
なる?」
「……はい」
ミラは、少しだけ考えてから言う。
「でもさ」
「……はい」
「もう、
戻る前提じゃ、
ないよね」
エレノアは、答えなかった。
答えられなかった。
沈黙が落ちる。
そのとき、
水面が、わずかに揺れた。
風じゃない。
でも、重くもない。
「……今」
リーナが、小さく言う。
「……さっきと、
同じ感じ、
しません?」
ミラが、辺りを見回す。
「する」
エレノアの胸が、静かに鳴った。
――聞いてる。
――待ってる。
「……呼ばなくても」
エレノアは、ぽつりと言った。
「……来ます」
ミラが、眉を上げる。
「それ、
もう、
関係じゃん」
リーナが、少し不安そうに聞く。
「……怖く、
ないですか」
エレノアは、少し考えてから答えた。
「……怖いです」
「ですよね」
「……でも」
胸に手を当てる。
「……今日、
守ってくれました」
「うん」
ミラが、静かに頷く。
「それ、
大事なことだよ」
リーナが、ゆっくりと言う。
「……名前って、
決めるもの、
じゃなくて」
エレノアを見る。
「……自然に、
残るもの、
なのかも」
エレノアは、目を閉じた。
胸の奥で、
あの音が、また浮かぶ。
短くて、
柔らかくて、
呼びやすい音。
――ル。
喉の奥で、
止めた。
「……今日は」
エレノアは、目を開けて言った。
「……まだ、
言いません」
ミラは、即答した。
「うん。
それでいい」
リーナも、頷く。
「……でも」
「……はい」
「次、
同じことがあったら」
リーナは、少しだけ笑う。
「……そのときは、
聞かせてください」
エレノアは、一瞬迷ってから、
小さく頷いた。
「……はい」
三人で、その場を離れる。
帰り道、
エレノアは最後に振り返った。
水路。
畑。
杭のある場所。
それぞれ、少しずつ違うのに、
同じ“気配”が、つながっている。
名前は、まだ。
でも――
世界の方が、先に呼び始めている。
(つづく)




