第二話 最初に選んだ職
夜明けは、思ったよりも静かだった。
鳥の声がひとつ、ふたつ。
草原を撫でる風が、少しだけ冷たい。
エレノアは膝を抱えたまま、空の色が変わっていくのを眺めていた。
眠っていたわけじゃない。
けれど、起きていたとも言い切れない。
ただ、世界の音を聞いていた。
「……朝、なんですね」
呟くと、声がちゃんと空気に溶けた。
夢じゃない。
この世界は、続いている。
背後で、あの影がゆっくりと形を保っている。
夜よりも少し薄く、けれど消えない。
「眠らなかったのか」
「……あんまり。
でも、嫌じゃなかったです」
嘘ではなかった。
不安はある。
でも、それ以上に――ここが“触れていい場所”だと感じていた。
エレノアは立ち上がり、足元を見る。
昨日見つけた芽は、夜露を含んで瑞々しくなっていた。
葉の先が、わずかに空を向いている。
「……やっぱり」
無意識に、指が動いた。
葉には触れない。
周囲の土だけを、そっとすくい上げる。
粒は細かく、水を含みすぎている。
踏み固められた跡がある。
でも、根はまだ生きている。
「この辺り……
何度も、人が通ってますよね」
影は、肯定するように揺れた。
「討伐に向かう者たちの道だ。
強い魔物が出る。
そして……召喚も、よく使われる」
エレノアは小さく息を吸った。
理由が、見えてくる。
「……それで、土地が疲れてる」
魔法を使えば、目に見える結果が出る。
早い。派手。分かりやすい。
でも、何度も、何度も同じ場所で使えば――。
「壊れますよね。
ゆっくり、だけど」
影は、静かに肯いた。
エレノアは、少しだけ考えてから言った。
「……あの。
もし、私がここで何かするなら……
まず、戦うより先に、
“調べる”ところから始めたいです」
影の光が、わずかに強まる。
「職を選ぶか」
「……はい」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が落ち着いた。
この感覚は、知っている。
何を作るか決める前。
素材を前にして、道具を選ぶとき。
エレノアは、足元の芽を見る。
「まずは……
育つものを知りたいです」
影が、少し首を傾げる。
「園芸か」
「はい」
即答だった。
武器でも、防具でも、魔法でもない。
まずは、植物。
「ここがどんな土地で、
何が育って、
何が弱っているのか……
知らないままじゃ、
何も呼べない気がして」
影は、しばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと頷く。
「正しい選択だ。
この世界では、あまり評価されないが」
エレノアは苦笑した。
「……慣れてます」
評価されない作業。
数字にならない手間。
でも、後から効いてくること。
それを知っている。
影が、空気に細い光の線を描いた。
簡素な文様。
複雑ではない。
けれど、意味が通っている。
「触れてみろ。
“読む”だけでいい」
エレノアは、ゆっくりと手を伸ばす。
芽には触れない。
その周囲の空気。
土と、湿度と、微かな魔力の流れ。
――来る。
音じゃない。
言葉でもない。
でも、確かに“情報”が流れ込んでくる。
乾きやすい。
踏まれている。
でも、根は深い。
この土地は、本来、もう少し柔らかい。
「……ここ、少しだけ整えれば……
ちゃんと、育ちます」
自分でも驚くほど、自然に分かった。
知識じゃない。
感覚だ。
影が、初めてはっきりと“笑った”気配を見せた。
「園芸師だな」
エレノアの胸の奥で、何かが静かに定まる。
職を得た、というより――
世界との接点が一つ、増えた。
「……あの」
「なんだ」
「この場所……
少し、手を入れてもいいですか」
「もちろんだ」
エレノアは周囲を見渡し、
踏み荒らされた部分を避けるように、
小さな枝と石を集め始めた。
道具はない。
でも、手はある。
知ろうとする気持ちもある。
芽の周りに、簡単な囲いを作る。
風が直接当たらないように。
水が溜まりすぎないように。
「……これで、今日は大丈夫」
誰に聞かせるでもなく、そう言った。
影が静かに言う。
「最初の仕事としては、十分だ」
エレノアは、少しだけ照れたように視線を逸らした。
「……まだ、何も作ってないのに」
「“壊さなかった”。
それが、最初の成果だ」
その言葉に、胸がじんわり温かくなる。
戦っていない。
勝っていない。
でも――無駄じゃない。
遠くで、街の朝の音が聞こえ始める。
人の声。
金属の鳴る音。
新しい一日の始まり。
エレノアは、芽をもう一度見てから、影に向き直った。
「……街に、行ってみたいです。
園芸師として、
できることがあるか……知りたい」
影は、ゆっくりと道を指した。
「フィオラの街だ。
お前の最初の“人”が、そこにいる」
「……人、ですか」
少しだけ、緊張する。
でも、逃げたいほどじゃない。
エレノアは深呼吸をして、一歩踏み出した。
最初に選んだのは、
剣でも、魔法でもない。
育てるための、一歩だった。
(つづく)




