第182話 南にあるもの
街へ戻る頃には、日が傾きはじめていた。
門の前にはいつも通り人がいる。
荷車を引く者。
帰ってきた農夫。
遊び疲れた子ども。
世界は変わっていないように見える。
でも、エレノアにはもうそう見えなかった。
同じ灯り。
同じ土。
同じ風。
それでも、その下では何かが削られている。
誰にも気づかれないまま、少しずつ。
ヴァルクは管理棟に戻ると、すぐに扉を閉めた。
机の上に地図を広げる。
南へ伸びる線。
森。
丘。
装置のあった場所。
カイルが慎重に位置を書き込んでいく。
レナは腕を組んだまま黙っている。
エレノアは窓の外を見ていた。
空は赤い。
綺麗な夕焼けだ。
こんなに穏やかな空の下で、地脈は削られている。
そのことが、妙に苦しかった。
「確認しよう」
ヴァルクが言う。
「装置は一つではない」
「召喚獣を使った形跡がある」
「地脈を一本の流れに変えている」
レナが低く言う。
「兵器だな」
カイルが首を振る。
「まだ分かりません」
「地脈を集める理由は、兵器だけとは限りません」
「灯り、農具、結晶炉……」
「足りない土地なら、いくらでも使い道はあります」
その言葉に、部屋が少しだけ静まる。
足りない土地。
足りないから、集める。
その考え方は、理解できないものではない。
むしろ、とてもよく分かる。
レナが言う。
「分かるから厄介なんだよ」
「飢えてるやつに、盗むなって言うのは簡単じゃない」
エレノアはその言葉を聞いて、しおりのことを思い出した。
現実のしおりが今どんな夜を過ごしているのかは分からない。
でも、人が何かを失うのを怖がる気持ちは、世界が違っても変わらない気がした。
だからこそ。
ここにあるものは、ただの悪ではない。
ヴァルクは静かに言った。
「だが、続ければ壊れる」
「街も、土地も、いずれは向こうもな」
カイルが地図の南を見つめる。
「この線……止まっていません」
「さらに奥へ続いています」
レナが眉をひそめる。
「どこまでだ」
カイルは答えない。
答えられない。
その代わり、エレノアの胸の奥でヴェルナシアが低く言った。
(遠い)
短い言葉。
だが、その一言だけで十分だった。
遠い。
つまり、広い。
つまり、根が深い。
ヴァルクは地図を畳む。
「大きく動く前に、もう一つ確認する」
「南に向かう流れの先だ」
レナが言う。
「本体か」
「そうだ」
カイルは不安そうに視線を落とす。
「もし、もっと大きな装置があったら……」
「ある」
エレノアは小さく言った。
全員が彼女を見る。
エレノアは窓の外を見たまま続ける。
「きっと、あります」
「これだけを作って終わるとは思えません」
「もっと大きな場所がある」
「もっとたくさん集めている場所が」
部屋の空気がさらに重くなる。
誰も否定しない。
否定できない。
ヴァルクは短く頷いた。
「では決まりだ」
「明日から準備に入る」
「南へ出る」
レナが槍を握り直す。
カイルは地図を抱える。
エレノアは目を閉じる。
本当に、始まるのだ。
街を守るだけでは足りない。
一つの装置を止めるだけでも足りない。
もっと南へ。
もっと奥へ。
そして、その先にはきっと“人”がいる。
装置を作った誰か。
続けると決めた誰か。
守るために削ることを、選んだ誰か。
ラグナが低く笑う。
(ようやく本丸か)
ネファルが静かに言う。
(まだ入口だ)
ルミナが小さく光る。
(でも、近づいてる)
ヴェルナシアは、風の奥でただ一言だけ告げた。
(南にある)
それだけだった。
だが、その言葉には確かな重さがあった。
街の外で風が吹く。
灯りが小さく揺れる。
誰もまだ知らない。
この小さな街の南で、
もっと大きなものが動いていることを。
エレノアはゆっくり目を開ける。
怖くないとは言えない。
でも、もう戻れない。
知ってしまった。
見てしまった。
壊された召喚存在も。
削られていく地脈も。
静かに集められていく力も。
だから、行くしかない。
「……止めます」
今度は誰にも聞こえる声で言った。
小さい。
でも、確かだった。
ヴァルクが振り返る。
レナも、カイルも見る。
誰も笑わない。
誰も軽く扱わない。
その言葉が、この部屋で一番重かったからだ。
夕焼けは、ゆっくり夜へ変わっていく。
そして物語は、
ついに“南”へ向かい始めた。




