第171話 揺れのない揺れ
夜市は、いつもより少し賑わっていた。
焼き菓子の甘い匂い。
油で揚げた魚の音。
楽師が奏でる弦の震え。
彫金師の反射灯が、やわらかな光を広げている。
強くない。
だが、街には十分だ。
エレノアは通りを歩きながら、灯りの揺れを目で追っていた。
揺れていない。
風も穏やかだ。
それなのに。
胸の奥が、わずかにざわつく。
(……おかしい)
ラグナが先に反応する。
(熱が浅ぇ)
ネファルが続く。
(引かれている)
エレノアは立ち止まる。
通りの真ん中で、空気の層を探る。
魔力が薄いのではない。
削られている。
均一に。
静かに。
ヴェルナシアが、初めて低く言う。
(これは、風ではない)
声は冷たい。
荒れていない。
だが、警戒している。
エレノアは視線を上げる。
空は澄んでいる。
雲もない。
地面に意識を落とす。
足裏から伝わる感覚。
地脈は、流れている。
止まっていない。
だが、どこかで“吸われている”。
(……誰かが、引いている)
ラグナが笑う。
(やっと面白くなってきたか)
ネファルが静かに遮る。
(違う。これは戦ではない)
ヴェルナシアの声が重なる。
(戦いより、質が悪い)
夜市の子どもが駆け抜ける。
楽師が音を外す。
ほんの一瞬。
だがすぐ戻る。
誰も気づかない。
エレノアだけが、呼吸を浅くする。
「……まだ、小さい」
口には出さない。
喧騒の中で立ち尽くす少女を、誰も気にしない。
彫金師が灯りを直す。
裁縫師が布を広げる。
鍛冶場から鉄を打つ音が遠くに聞こえる。
街は壊れていない。
だが。
削られている。
じわじわと。
(……どこから?)
ネファルが答える。
(方向は南)
ラグナが言う。
(遠いな)
ヴェルナシアは、わずかに沈黙してから告げる。
(意志がある)
その言葉に、空気が変わる。
偶然ではない。
自然現象でもない。
誰かが、意図している。
エレノアはゆっくりと息を吐いた。
怖い、とは思わない。
だが。
嫌な想像が、胸の奥を撫でる。
夜市の灯りは変わらない。
笑い声も止まらない。
それでも。
確かに、何かが削られている。
静かに。
音もなく。
エレノアは振り返らず、工房へ戻る。
背後で楽師が再び弦を鳴らす。
夜は続く。
だが。
世界は、少しだけ傾いた。




