第十三話 名前で、呼ばれた
作業が一段落した頃、雨はほとんど止んでいた。
畑の土はまだ湿っているが、
さっきまでの重さはない。
水が流れ、空気が通り、
“息ができる場所”になっている。
エレノアは、少し離れたところで
その様子を眺めていた。
――やりきった、という感じじゃない。
――でも、置いていかれなかった。
そんな、不思議な感覚。
「……エレノアさん」
後ろから、声がした。
振り向くと、
さっきまで鍬を持っていた男性が立っている。
年は、少し上だろうか。
作業着の袖をまくり、
雨で濡れた手を拭っている。
「……はい」
名前で呼ばれた。
それだけで、
胸の奥が、ほんの少しだけ跳ねる。
「さっきの……
ここ、踏まないでって言ってくれたところ」
「……はい」
「助かったよ」
短い言葉だった。
大げさでも、感謝を強調するでもない。
でも、
“作業を止めなかった人”の声だった。
「……あのまま踏んでたら、
たぶん、また水溜まってた」
エレノアは、少しだけ視線を落とした。
「……よかったです」
それ以上、言えなかった。
男性は、少し考えるようにしてから続けた。
「畑、
全部任せたいわけじゃない」
エレノアの胸が、きゅっとなる。
――あ、これは。
「でもさ」
言葉が、続いた。
「要所だけ、
見てほしい」
エレノアは、顔を上げた。
「……要所、ですか」
「踏んでいいか、
触っていいか、
今か、待つか」
男性は、畑を見回す。
「俺たち、
分かんないんだよ」
それは、
弱音でも、投げやりでもなかった。
ただの、事実。
エレノアの胸の奥で、
何かが、静かに動いた。
――頼られる、というより。
――選ばれた。
「……全部じゃなくて……いいんですか」
思わず、そう聞いていた。
男性は、少し笑った。
「全部だったら、
俺が困る」
その言葉に、
エレノアの肩の力が抜けた。
「……それなら」
深く息を吸う。
「……出来る範囲で、
見ます」
“やります”じゃない。
“出来ます”でもない。
“見ます”。
それが、今の自分に一番近い言葉だった。
男性は、頷いた。
「それでいい」
立ち去る背中を見送りながら、
エレノアはしばらく、その場に立っていた。
影の気配が、
静かに、隣にある。
――呼ばれたな。
「……名前、でしたね」
小さく、そう返す。
――音ではない。
――役割としての。
エレノアは、杭を見る。
まだ、正式な名はない。
でも、
•ここを見る人
•ここを守る人
•ここを“待てる”人
その輪郭が、はっきりしてきた。
ミラが、遠くから駆け寄ってくる。
「ねえねえ」
「……はい」
「今のさ」
少し、声を潜める。
「もう、
エレノアじゃなかった?」
エレノアは、一瞬考えてから答えた。
「……前の私だったら、
断ってたと思います」
ミラは、驚いたように目を丸くして、
すぐに、笑った。
「そっか」
「……でも」
エレノアは、杭に手を置いた。
「……逃げてないです」
影が、静かに応える。
――それが、違いだ。
エレノアは、胸の奥で
小さく、何かが羽ばたくのを感じた。
大きな翼じゃない。
まだ、飛べない。
でも――
名前で呼ばれた風は、確かにあった。
(つづく)




