第十二話 それでも、前に立つ
フィオラの街に、久しぶりの雨が降った。
強くはない。
でも、逃げ場を探すには十分な雨だった。
屋根の下に人が集まり、
通りは少しだけ静かになる。
エレノアは、木工師ギルドの軒先で足を止めた。
――本当は、行かなくてもいい。
畑は落ち着いている。
杭も、問題ない。
触媒の効きも、まだ続いている。
「……でも」
胸の奥で、
小さな引っかかりが消えなかった。
今日、街外れの畑を使いたいという話を、
ミラがぽろっと漏らしていた。
畑を“戻す”のではなく、
もう一度、人が使おうとするという話。
それは、
嬉しいことのはずだった。
でも――
「……壊れないかな」
誰に聞かせるでもなく、
エレノアはそう呟いた。
壊れたら。
乱暴に使われたら。
また、疲れてしまったら。
――それでも、私は。
エレノアは、深く息を吸った。
雨音の中で、
杭のある畑の方向を思い浮かべる。
影の気配が、背後で静かに揺れた。
――行くのか。
短い感覚。
「……はい」
声に出して答えたのは、
自分でも意外だった。
――止めるつもりか。
「……違います」
エレノアは、少しだけ言葉を探す。
「……ちゃんと、
話したいです」
影は、何も言わなかった。
でも、
離れなかった。
⸻
畑には、すでに数人の人が集まっていた。
鍬を持った人。
木箱を運ぶ人。
慣れた手つきと、
少し雑な足運び。
ミラも、その中にいた。
「あ、エレノア」
気づいて、手を振る。
「来てくれたんだ」
「……はい」
胸が、少し苦しくなる。
止めたいわけじゃない。
でも、黙って見ているのも違う。
エレノアは、杭のそばまで歩いた。
雨に濡れた土が、
少し重そうに見える。
「……あの」
声が、思ったより小さかった。
近くにいた男性が、振り向く。
「ん?」
エレノアは、一瞬だけ、視線を落とした。
――前に出るの、怖い。
――間違っていたらどうしよう。
でも。
「……ここだけは」
顔を上げた。
「……ここだけは、
踏まないでほしいです」
雨音が、少しだけ大きく感じた。
「水、溜まりやすくて……
今、休ませている途中なので」
男性は、眉をひそめた。
「休ませる?」
「……はい。
まだ、完全じゃないです」
説明が足りない。
自分でも分かる。
でも、
引かなかった。
ミラが、横から口を挟む。
「この人、
ここ整えてくれたんだよ」
「……へえ」
視線が、エレノアに集まる。
胸が、きゅっと縮む。
――今までなら、ここで下がってた。
「……私、
全部を決めたいわけじゃないです」
エレノアは、ゆっくりと言った。
「使ってほしい。
でも……壊れないように、
一緒に、やれたら……」
言い切る声ではない。
でも、逃げてもいない。
しばらく、沈黙。
雨が、杭を叩く。
やがて、最初に話しかけた男性が言った。
「……じゃあ、
どこなら、いい?」
エレノアの胸が、
大きく跳ねた。
「……え?」
「踏んでいい場所。
置いていい場所」
エレノアは、少しだけ戸惑ってから、
土の状態を見て、指を差す。
「……ここ、なら」
一歩、前に出る。
影の気配が、
背中で、確かに支えていた。
「……あと、
水、こっちに流すと……」
言葉が、自然に続いた。
誰も、遮らない。
誰も、急かさない。
ミラが、嬉しそうに笑った。
「ほらね」
作業が再開される。
でも、さっきとは違う。
足元を見る人が増え、
杭の周囲は、ちゃんと避けられた。
エレノアは、少し離れた場所で、
その様子を見ていた。
胸が、じんわりと温かい。
――飛んだわけじゃない。
――でも、地面から離れた。
影が、静かに伝えてくる。
――それが、一歩だ。
エレノアは、小さく頷いた。
「……はい」
雨は、いつの間にか弱くなっていた。
雲の向こうに、
薄い光が差し込む。
羽ばたきは、まだ先。
でも――
もう、立ち止まってはいない。
(つづく)




