第100話 残してしまうもの
エレノアは、紙を前にして立ち尽くしていた。
地図でも、報告書でもない。
契約文書でもない。
ただの、白い紙。
「……難しいですね」
(当たり前だ)
ネファル=ディアの声は、低く、静かだ。
(力なら)
(貸せる)
(だが)
(言葉は、お前のものだ)
⸻
「……分かってます」
エレノアは、椅子に腰を下ろす。
これまで、
止めてきた。
遮ってきた。
支えようとしてきた。
でも――
何も、残してこなかった。
⸻
書こうとして、止まる。
「正しいやり方」
「安全な方法」
そう書いた瞬間に、
それは命令になる。
「……違う」
エレノアは、首を振る。
「……それじゃ、また」
「考えなくてよくなってしまう」
⸻
ゆっくりと、言葉を選ぶ。
これは、万能な守りではありません
使える時と
使えない時があります
迷ったら
立ち止まってください
短い。
でも、曖昧だ。
それでも――
嘘ではない。
⸻
「……これで、いいのかな」
(いい)
ネファル=ディアは、即答した。
(不親切だが)
(奪わない)
⸻
翌日。
その紙は、
掲示板の隅に貼られた。
目立たない。
装飾もない。
それでも、
立ち止まる人がいた。
⸻
「……書いたの、あんたか」
以前会った職人が、腕を組む。
「……はい」
「分かりにくいな」
「……はい」
エレノアは、否定しない。
⸻
「でもな」
職人は、紙をもう一度読む。
「……勝手に、判断しろって書いてある」
「……はい」
「……厄介だな」
「……よく言われます」
その言葉に、
職人は、少しだけ笑った。
⸻
その日のうちに。
紙は、書き写された。
別の街へ。
別の掲示板へ。
内容は、変わっていない。
だが――
**“誰が書いたか”**が、少しずつ付け加えられる。
「止めた召喚士の言葉」
「遮った者の考え」
⸻
遠く離れた場所で。
ヴァルクは、その写しを読んでいた。
最後まで、黙って。
「……命令していない」
副官が、ぽつりと言う。
「だが」
「考えさせている」
ヴァルクは、頷く。
「……だから、厄介だ」
⸻
「規定に、触れますか」
「いいや」
ヴァルクは、紙を畳む。
「だが」
「思想として扱われ始める」
「それは」
「力より、広がる」
⸻
夜。
焚き火の前で、
エレノアは、少し不安だった。
「……残して、しまいました」
(ああ)
ネファル=ディアが応じる。
(だが)
(書かずにいれば)
(もっと歪んだ)
「……はい」
⸻
遠い現実の世界で。
しおりは、
自分の書いたメモを見返していた。
誰かに渡すためのもの。
でも、
受け取り方は、相手次第。
「……それでも」
「書かないよりは、いい」
そう思えたことが、
今日の答えだった。
⸻
エレノアは、紙を見つめる。
もう、戻せない。
やり方は、真似される。
言葉は、解釈される。
それでも。
考える余地を残した。
それが、
彼女が選んだ線だった。
そして――
世界は、その線を“思想”と呼び始める。




