第92話 裁定の準備
ヴァルクは、最後まで書類を読まなかった。
必要な情報は、
すでに頭に入っている。
机の上には、三つの報告。
・召喚工程への第三者介入
・召喚体の損壊なし
・規定違反だが、悪意なし
どれも、
単体なら問題にはならない。
だが――
同時に存在してはいけない組み合わせだった。
「……厄介だな」
低い声で、独り言。
⸻
部屋の外では、
副官が静かに待っている。
「呼べ」
短い一言。
副官は一歩進み、
必要最低限だけを告げる。
「噂は、もう街を越えています」
「“止める召喚士”という言葉が、一人歩きしています」
「……使われ始めたか」
「はい」
「都合のいい解釈で」
⸻
ヴァルクは、指を組んだ。
「……本人は?」
「沈黙しています」
「弁明も、思想の表明もしていません」
「……そうか」
その沈黙が、
一番問題だった。
⸻
「優しい者は」
「説明を怠る」
ヴァルクは、ぽつりと言う。
「自分が“何者に見えるか”を」
「後回しにする」
副官は、口を挟まない。
この男が、
判断を下す前の沈黙だ。
⸻
「……だが」
ヴァルクは、目を伏せた。
「思想が、武器になる段階に入った」
止めた事実。
壊さなかった結果。
裁かれなかった判断。
それらが揃えば、
必ず現れる。
**“使う側”**が。
⸻
「規定を、書き換えられるか?」
「いいえ」
「今は、まだ」
「……なら」
ヴァルクは、立ち上がった。
「裁定を下す前に」
「線を見極める」
「呼べ」
「本人を」
副官が、わずかに息を吸う。
「……対話、ですか」
「尋問ではない」
ヴァルクは、はっきり言った。
「確認だ」
⸻
その夜。
エレノアのもとに、
一通の正式な呼び出しが届いた。
命令でも、
警告でもない。
ただ、
拒否できない形式。
「……来ましたね」
ネファル=ディアが、静かに言う。
「……はい」
エレノアは、紙を畳む。
逃げる理由は、ない。
「……でも」
少しだけ、胸が重い。
(怖いか)
「……いいえ」
エレノアは、正直に答える。
「……重たいです」
(それでいい)
⸻
遠い現実の世界で。
しおりは、
上司に呼ばれて席を立った。
理由は、まだ分からない。
でも、
胸の奥が、少しざわつく。
「……でも」
深呼吸。
「……逃げない」
⸻
ヴァルクは、窓の外を見ていた。
街は、平和だ。
だが、
思想が流行り始めた街は、必ず揺れる。
「……止めるべきか」
「……見届けるべきか」
答えは、まだ出さない。
だからこそ――
本人を見る必要がある。
ヴァルクは、そう判断した。
これは、排除ではない。
保護でもない。
裁定の準備だ。
世界が、
次の段階へ進む前に。




