第91話 名前のない噂
最初は、風のようなものだった。
誰が言い出したのかも分からない。
どこから広がったのかも、はっきりしない。
ただ――
同じ言葉だけが、繰り返される。
「……止めたらしいな」
「召喚を」
それだけ。
善意でも、悪意でもない。
事実を、短く切り取っただけの言葉。
⸻
エレノアは、
市場の片隅でそれを聞いた。
自分の名前は、出ていない。
でも、話の中心がどこかは分かる。
「……召喚士が?」
「そんなこと、出来るのか」
「……出来るらしい」
「でも、問題になってるって」
声は、ひそひそと低い。
⸻
(来たな)
ネファル=ディアが、低く言う。
「……はい」
(噂は)
(意図よりも)
(“使いやすさ”で広がる)
エレノアは、頷いた。
⸻
その日の午後。
詰所の若い調査員が、
気まずそうに声をかけてくる。
「……あの」
「最近、変な話が出てて」
「……止めた召喚の件、ですか?」
即答だった。
調査員は、驚いた顔をしてから頷く。
「……はい」
「“切るより先に止める召喚士”がいるって」
「……それで?」
⸻
「……期待する人と」
「怖がる人が、両方います」
その言葉に、
エレノアは小さく息を吐いた。
「……そう、ですか」
(半分は、正しいな)
ネファル=ディアが応じる。
(だが)
(残り半分は、危うい)
⸻
夜。
エレノアは、焚き火の前で考えていた。
止めた。
助けた。
返した。
でも――
説明は、していない。
「……言葉が、足りないですね」
(説明すれば)
(安心させられるか)
「……いえ」
エレノアは、首を振る。
「安心は、出来ないです」
「この噂は」
「安心する話じゃ、ありませんから」
⸻
遠くで。
今日もまた、
誰かが噂を口にする。
「……呼ばなくても、いいらしい」
「……使わなくても、いいらしい」
言葉が、少しずつ変わる。
便利な解釈へ。
楽な方向へ。
⸻
エレノアは、
その流れを、止めなかった。
止められないと、分かっているからだ。
「……でも」
小さく呟く。
「……線は、引きます」
⸻
同じ夜。
しおりは、
職場で誰かの愚痴を聞いていた。
「……最近さ」
「“やらなくてもいい”って言葉が増えてない?」
しおりは、少し考えてから答える。
「……それ」
「“やらなくていい”と」
「“考えなくていい”は、違いますよね」
相手は、少し驚いた顔をした。
「……ああ」
「確かに」
⸻
エレノアは、空を見上げる。
噂は、もう止まらない。
でも――
誤解される覚悟は、最初からあった。
問題は、次だ。
噂を“都合よく使う者”が、
必ず現れる。
それを、
見過ごせるか。
――いいえ。
エレノアは、
自分の答えを、もう知っていた。




