第90話 名もない恩
その気配は、
夜が深くなってからだった。
焚き火の火が、
ふっと揺れる。
「……?」
エレノアは、顔を上げた。
敵意はない。
魔力の高まりもない。
それでも――
“あの時と同じ質感”。
(……来たな)
ネファル=ディアの声が低く響く。
⸻
姿は、はっきりしない。
人の形ではない。
召喚獣とも、精霊とも言い切れない。
ただ、
崩れずに“在っている”。
「……戻って、来られたんですね」
エレノアの声は、静かだった。
影は、ゆっくりと揺れる。
(……返された)
それだけの言葉が、
かすかに伝わってきた。
⸻
「……呼びませんでした」
エレノアは、念のため言う。
「契約も」
「名も」
影は、否定しない。
でも、
離れようともしない。
(……来た)
その感情が、
ゆっくりと伝わる。
⸻
ネファル=ディアが、わずかに気配を強める。
(気をつけろ)
(ここから先は)
(“選ばせる側”になる)
「……はい」
エレノアは、一歩も下がらなかった。
⸻
「……あなたは」
「ここに、来なくてもよかった」
影は、揺れる。
(……それでも)
(……在りたかった)
その言葉は、
依存ではない。
命令への服従でもない。
選択だった。
⸻
エレノアは、少しだけ目を伏せる。
「……それは」
「とても、重いです」
「でも」
「……私は、受け取れません」
影が、微かに揺らぐ。
拒絶ではない。
戸惑いだ。
⸻
「……あなたが来た理由が」
「“恩”なら」
エレノアは、はっきり言う。
「私は」
「それを、力に変えません」
「あなたは」
「もう、返されています」
沈黙。
風が、焚き火を揺らす。
⸻
しばらくして、
影は、少しだけ形を整えた。
完全ではない。
でも、安定している。
(……なら)
(……見ている)
それだけを残して、
影は、ゆっくりと薄れる。
消えたのではない。
距離を取っただけだ。
⸻
焚き火の音だけが残る。
「……これで、よかったんでしょうか」
エレノアの声は、少しだけ揺れていた。
(ああ)
ネファル=ディアは、即答した。
(それが)
(“救った”ということだ)
⸻
その夜。
しおりは、
理由もなく胸が温かかった。
嬉しい、とは違う。
安心、とも違う。
「……誰かが」
「ちゃんと、返された気がする」
小さく呟いて、
そのまま眠りに落ちた。
⸻
翌朝。
エレノアのもとに、
短い報せが届く。
昨夜、森の縁で
不安定だった地脈が、自然に安定した
原因不明
ただし、介入の痕跡なし
エレノアは、
紙をそっと畳んだ。
「……結果だけが、残る」
(それでいい)
ネファル=ディアが応じる。
(名も)
(功績も)
(要らぬ)
⸻
エレノアは、空を見上げる。
助けたことは、
評価されない。
でも――
歪みは、ひとつ戻った。
それで、十分だった。
⸻
越えてはいけない線を、越えさせなかった。
そして、
越えなかったことで、
世界はほんの少しだけ息を整えた。
エレノアは、
また歩き出す。
名もない恩を、
背負わないために。




