第88話 越えてはいけない線
異変は、音もなく起きた。
風も、騒がない。
地面も、揺れない。
それなのに――
胸の奥が、はっきりと痛んだ。
「……今の」
エレノアは、足を止める。
ネファル=ディアの気配が、
即座に応じた。
(ああ)
(今、越えた)
「……“人”が、ですか」
(違う)
(扱いだ)
⸻
現場は、森の縁だった。
魔物の気配はない。
戦闘の痕も、薄い。
代わりに、
地面に残る――刻印。
簡易な召喚陣。
だが、雑だ。
急いで描かれ、
確認もされていない。
「……これは」
エレノアは、膝をついた。
「……“呼ぶためだけ”の陣ですね」
(ああ)
(応えられるかどうかも)
(確かめていない)
⸻
少し先で、声がする。
「早くしろ」
「間に合わなくなる」
若い召喚士だった。
一人ではない。
二人。
一人が陣を描き、
もう一人が、急かしている。
その足元で――
小さな影が、揺れていた。
名を呼ばれていない。
形も、安定していない。
それでも、
無理に引き出されている。
⸻
エレノアは、
一歩、踏み出した。
「……待ってください」
声は、静かだった。
でも、
空気が変わる。
召喚士の一人が、振り返る。
「誰だ」
「関係ない」
「……関係あります」
エレノアは、
目を逸らさなかった。
⸻
「そのやり方では」
「壊れます」
召喚士は、鼻で笑う。
「壊れる前に、使えばいい」
「……」
エレノアは、
その言葉に、迷わなかった。
ここだ。
ここが、線だ。
⸻
「……それは」
「“切る”より、先です」
「使い捨てる、という選択です」
その言葉に、
もう一人の召喚士が、わずかに顔を歪める。
「……黙れ」
「急いでるんだ」
⸻
エレノアは、
一歩、さらに近づいた。
「……止めます」
宣言ではない。
脅しでもない。
事実だった。
(行くか)
ネファル=ディアの声。
「……はい」
(初めてだな)
「……はい」
⸻
エレノアは、陣の縁に立つ。
壊さない。
切らない。
ただ――
“呼び続ける流れ”を遮る。
魔力を、流さない。
境界を、閉じない。
応えが、途切れる。
⸻
影が、
その場に崩れ落ちる。
消えない。
でも、引き戻される。
「なにを――!」
召喚士が叫ぶ。
「……壊してません」
エレノアは、はっきり言った。
「返しただけです」
⸻
沈黙。
森の空気が、元に戻る。
召喚士の一人が、
歯を噛みしめる。
「……邪魔するな」
「俺たちは、仕事をしてる」
エレノアは、
一瞬だけ、言葉を選んだ。
「……“仕事”なら」
「なおさらです」
「そのやり方は」
「後で、もっと大きな歪みを生みます」
⸻
二人は、何も言わず、
陣を消して立ち去った。
振り返らない。
それでも、
エレノアは追わなかった。
裁かない。
糾弾しない。
でも――
止めた。
⸻
エレノアは、
その場に残り、息を整える。
「……初めて、ですね」
(ああ)
ネファル=ディアが、低く言う。
(お前が)
(明確に、線を引いた)
「……怖いです」
正直な言葉だった。
「でも」
「……越えさせる方が、もっと怖い」
⸻
足元で、
小さな気配が、わずかに動く。
安定していない。
でも、消えていない。
(……助かった)
かすかな感情が、伝わる。
エレノアは、
何も答えなかった。
ただ、
そこに立ち続けた。
⸻
遠い現実の世界で。
しおりは、
誰かの言葉に、はっきり「それは違う」と言った。
大きな声ではない。
でも、逃げなかった。
後から、少しだけ手が震えた。
「……でも」
「……言えて、よかった」
⸻
エレノアは、空を見上げる。
今日、世界は少しだけ軋んだ。
でも――
折れなかった。
待つだけでは、守れない線がある。
導かずとも、
止めなければならない瞬間がある。
それを、
エレノアは初めて、選んだ。
もう、戻れない。
でも――
進む理由は、はっきりしていた。




