第87話 導かない距離
その日の夕方。
エレノアは、少し高い場所から街道を見下ろしていた。
人の流れは、昨日とほとんど変わらない。
急ぐ者はいない。
逃げる者もいない。
でも――
立ち止まっている者も、少ない。
「……戻ってはいませんね」
ネファル=ディアが、低く応じる。
(止まった者は)
(その場に、留まっている)
「……はい」
それは、前進ではないかもしれない。
でも、後退でもない。
エレノアは、その違いを大切にした。
⸻
少し離れた場所で、
見覚えのある背中を見つける。
昼間の、あの冒険者だ。
彼は今、
地面に地図を広げている。
進んでいるわけでも、
戻っているわけでもない。
考えている。
「……声、かけますか?」
エレノアは、一歩だけ近づいてから、止まった。
「……いいえ」
(導かぬ、か)
「……はい」
⸻
エレノアは、
自分の中に芽生えた感覚を確かめる。
助けられる。
示せる。
背中を押すことも、できる。
でも。
「……選ばせない、が」
「……“置いていかない”に、変わってきてます」
ネファル=ディアは、
その言葉を噛みしめるように沈黙した。
(難しい線だな)
「……はい」
⸻
その時。
冒険者が、顔を上げた。
エレノアと、目が合う。
一瞬、迷ったあと、
彼は小さく頭を下げた。
それだけ。
エレノアは、
何も返さなかった。
微笑むことも、
近づくことも。
ただ、
そこにいる。
⸻
やがて冒険者は立ち上がり、
ゆっくりと歩き出した。
今度は、
街道でも、森でもない方向。
「……あの道」
エレノアは、地図を見る。
「……まだ、何も起きてない場所ですね」
(だからこそ、か)
「……はい」
⸻
エレノアは、その背中が見えなくなるまで、
動かなかった。
導かなかった。
止めなかった。
それが、
今の自分にできる、最大の介入だった。
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夜。
焚き火を起こしながら、
エレノアは、今日一日を振り返る。
助けていない。
解決もしていない。
でも――
“関係”は、生まれている。
「……世界を直す、って」
独り言が漏れる。
「……壊れたところを塞ぐことじゃ、ないですね」
ネファル=ディアが、静かに応じる。
(人が)
(自分で歩ける余地を)
(残すことだ)
⸻
その言葉に、
エレノアは頷いた。
「……はい」
「……だから」
「私が前に出すぎると、ダメなんです」
(学んだな)
「……やっと、です」
⸻
同じ夜。
しおりは、
いつもより少し遅く帰宅した。
寄り道をしたわけじゃない。
ただ、
歩く速度が、ゆっくりだった。
「……今日は」
玄関で靴を脱ぎながら、呟く。
「……誰かに、決めてもらわなくてよかった」
理由は分からない。
でも、
それで胸が軽い。
⸻
エレノアは、焚き火を消す。
今日も、世界は壊れていない。
そして、
誰かが、自分で選んだ。
それだけで、
十分に“動いた日”だった。
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導かない距離。
置いていかない位置。
その間に立つことが、
今のエレノアの役割だった。
そしてそれは、
もう後戻りできない選択でもある。




