第十話 それ、もう名前だよ
フィオラの街は、今日もいつも通りだった。
朝の呼び声。
パンの焼ける匂い。
冒険者が鎧を鳴らしながら通り過ぎていく音。
ミラは、園芸師ギルドの前で立ち止まり、空を見上げた。
「……なんか、
今日は空気が変な気がする」
もちろん、誰も答えない。
でも、その“違和感”は、ずっと胸に引っかかっていた。
昨日、エレノアと別れたあと。
街外れの畑から戻ってきた彼女は、
どこか、静かすぎた。
元気がない、とは違う。
落ち込んでいるわけでもない。
ただ――
考えすぎている人の静けさだった。
「……様子、見に行こ」
ミラはそう決めて、
仕事を早めに切り上げ、畑へ向かった。
⸻
畑は、昨日と変わらないように見えた。
荒れている。
使われていない。
でも――
「……あれ?」
ミラは、足を止めた。
杭の周囲だけ、
空気の流れが違う。
草の揺れ方が、ほんの少しだけ、
内側を向いている。
「……何、これ」
魔法陣でもない。
結界でもない。
でも、
“そこに居続ける前提”の場所になっている。
「……エレノア?」
名前を呼ぶと、
畑の奥から、小さく返事があった。
「……ミラ?」
エレノアは、杭のそばに立っていた。
いつも通りの黒い装い。
でも、視線が少し下がり気味だ。
「こんな朝から、どうしたの?」
「……少し、
確認したくて」
ミラは、エレノアの隣に立つ。
自然と、杭の方を見る。
「……ねえ」
「……はい」
「ここ、
昨日と違わない?」
エレノアの肩が、ほんのわずかに揺れた。
「……分かりますか」
「うん。
私、専門じゃないけどさ」
ミラは、地面にしゃがみ込む。
「“居場所”になってる」
エレノアは、答えなかった。
その代わり、視線を伏せた。
「……昨日、
ちょっと……」
言い淀む。
いつものことだ。
ミラは、続きを急かさなかった。
「……音が、出ちゃって」
「音?」
「……呼ぶつもり、
なかったんです」
その言葉で、
ミラはすべてを察した。
「……ああ」
ゆっくり、立ち上がる。
「それ、
もう名前の始まりだよ」
エレノアが、はっと顔を上げた。
「……まだ、
名前じゃ……」
「うん。
正式じゃない」
ミラは、杭に手を伸ばしかけて、やめた。
「でもさ。
呼びたくなかったのに、
出ちゃったんでしょ?」
「……はい」
「それ、
“関係ができた”ってこと」
エレノアの指が、きゅっと握られる。
「……怖かったです」
「うん」
否定しない。
「名前ってさ、
呼びやすいものほど、
重たいんだよ」
エレノアは、黙って聞いている。
「だって、
呼び続ける前提だから」
その言葉に、
エレノアの胸が、静かに痛んだ。
「……私、
ちゃんと、
続けられるか……」
「分かんないよね」
ミラは、笑った。
「私も、
分かんないことだらけだし」
そして、少しだけ真面目な声になる。
「でもさ。
エレノアは――」
言葉を探す。
「最初から、
途中で投げる前提の人じゃない」
エレノアの目が、揺れる。
「失敗しても、
戻ってきたでしょ」
「……」
「迷っても、
逃げなかった」
ミラは、杭を見た。
「それが、
ここに出てる」
エレノアは、しばらく黙っていた。
やがて、ぽつりと零す。
「……昨日、
“一人にしない”って……
言っちゃいました」
ミラは、少し驚いてから、
すぐに頷いた。
「うん。
それも、もう名前だよ」
「……え?」
「名前ってさ、
音だけじゃない」
ミラは、エレノアを見る。
「どう関わるか、
どう呼ぶか、
どう離れないか」
「……」
「それ全部含めて、
名前」
風が、畑を抜ける。
杭の周りで、空気がゆっくりと回った。
エレノアは、深く息を吸った。
「……まだ、
決められません」
「いいよ」
即答だった。
「決めるまで、
仮のままでいこ」
エレノアは、少しだけ笑った。
「……音、
聞こえました?」
「ん?」
「……昨日の……」
ミラは、少し考えてから答えた。
「はっきりじゃないけど……
柔らかい音」
「……それ、
私も、同じです」
二人は顔を見合わせた。
「じゃあさ」
ミラが、いたずらっぽく言う。
「“その音”で、
しばらく呼んでみる?」
エレノアは、一瞬迷ってから、頷いた。
「……はい。
正式じゃない、
呼び方で」
杭のそばで、
影が、ほんの少しだけ揺れた。
嬉しそうでも、
悲しそうでもない。
ただ、
受け入れられた、という揺れ。
エレノアは思った。
――これは、
――召喚じゃない。
でも、
もう“無関係”ではない。
名は、まだ途中。
でも、
関係は、始まってしまった。
(つづく)




