第一話 名を受け取り、世界に触れる
夜は、音を静かにする。
窓の外で車が一台通り過ぎても、遠くの信号が切り替わっても、部屋の中心にある光だけは変わらなかった。
エアコンの送風が、規則正しく空気を撫でる。
机の上には、飲みかけの水。メモ帳。細いペン。
そして、モニター。
朝霧しおりは、椅子の背にもたれて、指先を一度だけほぐした。
昼間に使った筋肉の疲れがまだ残っている。
それでも、夜になると自然にここへ戻ってしまう。
――戦うのが、嫌いになったわけじゃない。
ただ、あの速度についていけなくなった。
画面の向こうには、いつもの街。
灯り、看板、遠くの音楽。
人が集まる場所。人がすれ違う場所。
生活がある場所。
彼女がいま開いているのは、戦いのための画面ではなかった。
素材の一覧。作業の進捗。手順の確認。
一つの工程を積み上げて、完成に近づくための、静かな作業台。
チャット欄が光った。
「今から行ける? 手伝ってほしい」
しおりの喉が、ほんの少しだけ詰まる。
誘われるのは嫌じゃない。
頼ってもらえるのは、うれしい。
でも、うれしさのあとに、いつも同じ不安が来る。
――迷惑をかけるかもしれない。
――自分の動きが遅いせいで、空気を悪くするかもしれない。
昔は、そんなこと考えなかったのに。
しおりは返信欄を開いて、指を止めた。
言い訳が頭の中をぐるぐる回る。
体調。用事。眠気。明日が早い。
でも、本当の理由はいつも同じだ。
ついていけない。怖い。強く言えない。
「……ごめんね」
誰にも聞こえない声で呟いて、彼女はやわらかい言葉を選んだ。
『今日はちょっと作業が残ってて…! また今度でもいい?』
絵文字も、語尾も、丁寧に。
角が立たないように。
断られた相手が傷つかないように。
送信したあと、胸の奥が少しだけ痛んだ。
断った自分が嫌いになる痛みじゃない。
断らせてしまった状況そのものが、切ない。
画面の中の自分は、黒を基調にした装いで立っている。
鎖の飾りが揺れ、金属の光が静かに息をしていた。
派手な強さはない。けれど、見ていると落ち着く。
「……似合ってるよ」
自分に言い聞かせるみたいに、しおりは笑った。
それでも、彼女は覚えている。
もっと前に、もっと強く在ろうとしていた自分を。
まだ“勝つこと”がすべてだと思っていた頃。
彼女は、仲間をまとめる立場にいた。
誰も行きたがらない場所を選び、
誰も欲しがらない報酬を目指して、
夜を越えて進む役目だった。
失敗する。帰る人が出る。空気が沈む。
それでも、残った人たちの様子を見て言葉を探した。
「あと一回だけ」
「次で区切ろう」
「ここまでやれたの、すごい」
あの頃の自分は、強かったのだろうか。
少なくとも、強くあろうとしていた。
誰かの背中を押す言葉を、持っていた。
今の自分は、押すより先に、引いてしまう。
しおりは作業台の一覧を眺めた。
素材の数は足りている。
工程も頭に入っている。
手は、確かに動く。
――戦えなくても、ここに居ていい。
その言い訳みたいな結論を、彼女は嫌いになれなかった。
誰かと競うより、世界を眺めて、手で触れて、形にする方が好きだ。
勝利よりも、完成。
討伐よりも、調整。
派手な拍手より、静かな達成感。
ふと、キャラクターの名前欄が目に入った。
しおりは、思い出す。
ずっと昔、漫画で出会った女の子の名前を。
強さじゃなくて、在り方が綺麗だった子。
誰かのために、壊さない選択をした子。
エレオノール――
いや、違う。自分が呼びたい音はもう少し短い。
「……エレノア」
口に出した瞬間、胸の奥が、ふっと温かくなった。
照れくさいのに、安心する。
“こうなりたかった”自分の輪郭が、少しだけはっきりする感じ。
その瞬間だった。
モニターの光が、いつもより深く揺れた。
背景の粒子が、演出のように舞い、――いや、違う。
演出ではない。
こちらに向かって、伸びてきている。
「……え?」
しおりは反射的に、マウスに手を置いた。
動かそうとして、止まる。
ポインターが、重い。
まるで砂の中に沈んだみたいに、動かない。
それだけじゃない。
画面が、近い。
距離感が狂う。
視界の端で、光が“奥行き”を持つ。
指先が、触れている。
プラスチックの冷たさではなく、温度。
硬いはずなのに、柔らかい。
板のはずなのに、皮膚のように息づいている。
エアコンの音が遠ざかった。
代わりに、どこか広い場所の風の音が聞こえる。
雨上がりの土の匂いが、部屋に満ちていく。
「……嘘」
怖い。
なのに身体が固まらない。
恐怖のかわりに、奇妙な懐かしさが胸に広がる。
星屑だった粒子が、道になる。
画面の奥が開いて、向こう側へ続く通路ができる。
その先から、声がした。
「――エレノア」
はっきりと。
やさしく、でも退かない声で。
しおりは息を吸った。
違う、と言おうとした。
私の名前は朝霧しおりだ。日本で生まれて、働いて、夜にここへ戻ってきて――。
けれど“朝霧しおり”という響きは、喉元でほどけてしまう。
思い出はある。
名前も、確かに知っている。
なのに、言葉として出てこない。
呼ばれた名のほうが、胸の奥へ沈んでいく。
エレノア。
「……そう、なんだ」
言い切らないまま、受け入れる。
抵抗するより先に、確かめたかった。
ここはどこ。
何が起きている。
私は――今、何を選んだ?
光が、彼女を包んだ。
眩しさは痛くない。熱もない。
ただ深い水に沈むように、音だけが消えていく。
次に感じたのは、冷たい土の感触だった。
草が足首に触れる。
空は高く、星が近い。
モニターの星よりずっと生々しく、鋭い。
息を吸い込むと、空気が濃い。
生き物の匂いがする。
咳が出て、喉がひりついた。
エレノアは膝をつき、ゆっくりと周囲を見回した。
少し先に白い壁の街が見える。
道らしきものが、草原を薄く割っている。
自分の身体が軽い。
筋肉の付き方が少し違う。
髪が頬に触れる――短い。明るい色。
指を通すと、絹のように滑った。
黒い装い。鎖の飾り。手袋。
さっきまで“画面の中”だったものが、ここにある。
彼女は立ち上がろうとして、足元に視線を落とした。
そこに、小さな芽があった。
踏めば簡単に折れてしまいそうな、柔らかな芽。
エレノアは反射的に足をずらし、芽を避ける。
「……ごめんね」
誰に言うでもなく呟く。
その瞬間、胸の奥で何かが微かに揺れた。
この世界は――声が近い。
背後で、空気が歪んだ。
振り向くと、影のような存在が立っている。
人の形に似ていて、似ていない。
黒い輪郭の内側に、淡い光が糸のように走っている。
目に当たる部分だけが、星のように明るかった。
「……やっと、届いた」
疲れた声。
命令を待つ獣の目ではない。
ただ、誰かに気づいてほしかった存在の目。
怖い。
けれど、嫌悪は湧かなかった。
なぜか――放っておけない。
エレノアは一歩下がりそうになって、止まった。
強く言えない自分のまま、できるだけ柔らかい声を探す。
「……えっと。急に、ここに来てしまって……。
あなたのこと、まだ、よく分からないです。ごめんなさい」
必要のない謝罪。
それでも、口から出てしまう。
影は微かに揺れた。
笑ったのか、泣いたのか分からない揺れ。
「それでいい。名を受け取ってくれた。それだけで」
名。
ただの音ではないのだろう。
役割であり、重みであり、居場所なのだろう。
エレノアは胸に手を当てた。
戦えなくてもいい。
前に出られなくてもいい。
それでも、この世界を知りたい。
触れて、確かめて、整えて、壊さずに使う道を探したい。
彼女は足元の土を指先で軽く掬い、匂いを嗅いだ。
水の含み。粒の細かさ。疲れの気配。
視線を芽へ戻す。葉の色、張り、向いている方向。
「……この場所、少し……疲れてます」
自分でも驚くほど自然に言葉が出た。
影が、静かに息を吐く。
「そうだ。だから君を呼んだ」
エレノアは小さく頷いた。
怖さは消えない。
でも、逃げる理由も見つからない。
「……戦うことは、できません。
でも……調べることなら。採ることなら。
少しずつなら……できます」
影は、初めて安心したように揺れた。
「まずは、足元を見ることからだ。
この土地は今――乱暴に使われている」
エレノアはもう一度、芽を見る。
守られるべきものが、ここにある。
壊れやすいものが、ここにある。
昔の自分が、遠いところで微笑んだ気がした。
誰も行かない場所へ行く。
誰もやらないことをやる。
ただし今度は、勝つためじゃない。
壊さないために。
エレノアは息を整え、影の存在をまっすぐ見た。
「……あなたの名前、教えてください。
呼ぶための、名前が……必要です」
影の目の光が、ほんの少しだけ強くなる。
「名は、まだ無い。
だが君が呼ぶなら、今夜から“名”になる」
夜風が草を揺らす。
遠い街の灯りが瞬く。
世界が、静かに開いていく。
(つづく)




